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極道恐怖大劇場 牛頭 GOZU

監督: 三池崇史

2003年


★★★★温気と恐怖がスポン

「何か沈滞したような濁り、長堀川のよどんだ流れ、曖昧さ。無意識の流れを思い起こさせるような倦怠感と、とりとめのなさ、あるいは鬱屈感。この気怠さと冗漫こそ、大阪と大阪人に見られる本質的な気質であり、街の雰囲気なのかもしれない。それを楢重は「大阪の温気(うんき)」と呼んだ。」

ちょうど読んでいた、小出龍太郎著「小出楢重――光の憂鬱」(春風社刊)には、大阪の本質をみごとにとらえたこんな文章があるのだけれど、この映画を観る限りでは、名古屋という土地には大阪にも増して「温気」が淀んで、そこにこもりきったままで腐臭を発しているのだとしか思えない(浪速芸人、木村進と間寛平の執拗な繰り返しの会話は、まさにこの「温気」そのものだ)。

たとえばアキ・カウリスマキの、「レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ」といった映画を観ると、その「奇妙な味」がいかにも作為的であることが丸見えなのだけれど、この映画の凄味というのは、どこまでが作為で、どこまでが本気なのか、見ている間はまったく区別のつかない、手探りの状態に放り込まれてしまうことにある。

それはたとえば棒読みの日本語を喋るガイジンの女が見つめる視線の先をたどると、壁一面にそのセリフ通りのカンペが貼られているというギャグには少しも笑えないのだが、そこで感じるのはギャグがコケてしまった脱力感ではなくて、それがたんなる楽屋オチのくすぐりなのか、それとも主人公(曽根英樹)に仕掛けられた罠の一つだと疑わなければならないのだろうかという迷いのなかに、笑うタイミングが吸い込まれたままで置き去りにされたような感覚で、あとにはただ温気がただようばかり。

そもそもこの、冨田恵子と曽根晴美が経営する気味の悪い旅館から始まった名古屋での兄貴(哀川翔)探しのエピソードにしても、結局主人公は近隣を一巡するだけで、ふたたびもとの旅館に吸い込まれていくのだし、その兄貴自体も、前代未聞の胎内巡りの末に、すべてがなにもなかったことになってしまう、言葉にしようのない結末を迎え、信じられないことだがなんと「爽快」なオチをもって、この映画は終わってしまうのだった。

エンドクレジットで流れる、監督作曲のおちゃらけた「牛頭の唄」を聞くと、やっぱりすべてが周到な作為なのだったと胸をなで下ろすことになるのだけれど、淀みながら渦を描いてぐるりと一回りする映画の中心に、まるで存在理由もなく屹立する牛頭の姿を思い出すと、今度はその牛頭を中心に、いくら反芻しても咀嚼しようがないエピソードが巡回しはじめるという、エンドレス感覚に悩まされることになる。


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