★★★
女優の競演が豪華
「姿三四郎」で有名な富田常雄が、北海道新聞に連載した小説の映画化作品、だそうです。
明治二十一年、九州中津から上京した青年春信介(重光彰)が、ジャーナリストとして大成するまでを描いているらしいのだけれど、本作で描かれるのは「青雲立志篇」とでもいった部分。
翌年公開の『続 浮雲日記』(監督: 並木鏡太郎)のあらすじを読むかぎり、これでもまだ完結していないみたいですね。でも、第三部の映画化作品は見あたりません。
マキノとしては完全な頼まれ仕事で、健康優良児的な主人公が国家主義運動の渦中に巻き込まれる物語は、たんなる時代背景にしかなっていない。話の主軸は、主人公が関わる女たちとの通俗メロドラマです。
重光彰という見慣れない、あまり上手くない俳優が演じている、木訥でさわやかな九州男児の、モテること、モテること。
到着したばかりの東京駅で、詐欺師の森繁久彌に騙されて飲食代を払えず、下仕事をすることになった牛鍋屋では、たちまちおかみさん(花柳小菊)に惚れられて、花見に行ったら暴漢から男爵令嬢(宮城千賀子)を得意の柔術で救って一目惚れされ、処世として住み込んだ男爵家では、令嬢とその妹(谷さゆ)の恋の争奪戦の様相を呈し、下宿した友人の家では、その妹(若山セツ子)が彼を慕うことになる。
この男、色恋には無関心なふうなのに、知らないうちに花柳小菊を孕ませたりして、油断も隙もない奴です。
主人公にも物語にも、あまり共感はできないけれど、郷愁をもって描かれる明治時代の風俗描写がすばらしい。
でもやっぱり見どころは、次から次へと登場しては、主人公への恋に狂う美女たちの競演。
玄人、素人、人妻、処女入り乱れての演技は、さながらマキノふう女優演出のショーケースといった趣です。
女心を表現する、なよなよとした姿態は、こういう女ならこう、と決めつけられたマキノ流の「型」どおりなのだけれど、そのことについては(けっして好きだとは言いたくない人だが)サマセット・モームも、こんなことを言っている。
人間はまったく同じ人など一人もいない。どの人も独自である、というようなことを、よく本で読む。それはある意味では真実だが、誇張されやすい真実だ。実際には人間は大同小異である。比較的少ない数のタイプに分けられる。……実際このことがリアリズムの基礎であり、リアリズムの長所は、読者がこの主人公なら知っていると認識できることである。
(サマセット・モーム「サミング・アップ」)
観る者が進んで虚構をリアルだと信じたくなる匙加減を、知悉した心地よさとでもいうのか、嘘でもいいからこんな女に会ってみたい、ってなもんですわ。
ことに、田中春男演じる馬鹿ぼっちゃんとの婚礼を控えた宮城千賀子が深夜ひっそりと、離れで暮らす書生の主人公の部屋に忍び込んで誘惑する場面は、女の嫉妬や情欲を剥きだしに描いてゾッとさせる。
こういうあっけにとられるような官能美が、作品の出来映えを選ばず、ごく自然な流れのなかで不意を突いて自由自在に出現するのだから、マキノは全作品を観たくなってしまう。
自伝「映画渡世」では、本作が森繁久彌との初めての出会いだったとか、冒頭近くの牛鍋屋で「へい、三円二十六銭になります」と、たった一言のセリフを与えられた女優が、のちにマキノの三度目の妻になる鳳弓子だったりとか、撮影現場で岸恵子と衝撃的な出会いを果たしたこととか、印象的な逸話の数々が語られていて、同書の愛読者には必見の作品。
デビューしたての岡田茉莉子が出演しているそうですが、たぶん田中春男の前で踊る芸者さんの一人です。
さらに余談ですが、大隈重信が爆弾テロに遭うところ、東映の『日本暗殺秘録』(1969)とソックリなショットがあって、記憶のなかでかけ離れた二つの映画が連結しました。
(CS鑑賞 2008/05/19記)