★★★☆
任侠バックステージ篇
シリーズ第五作。
録画していたものを見直してみて、やくざ映画としてはイマイチな作品だけれど、大正末期の芸能の世界を描いた風俗映画として抜群におもしろい、いかにもマキノらしい作品ではないかと、改めて思いました。
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大正十五年、浅草。
かつて聖天一家を率いていた平松(内田朝雄)は、今では足を洗って朝日座で興行を打っている。しかし、以前対立していた観音一家は、平松の借金のかたに朝日座を乗っ取ろうとしている。組長の風間(水島道太郎)は代貸の青木(天津敏)を送り込んで、平松から劇場の公正証書を受け取るのだった。
そんなとき、平松の息子で船乗りになった信太郎(高倉健)が帰ってくる。
平松興行や、人気者の歌江(ロミ山田)一座の人々は歓迎会を開く。ことに喜んだのは、楽屋番をしている老侠客中川(島田正吾)の娘、千沙子(藤純子)である。
その夜、平松は拳銃自殺で命を絶った。
皆の説得もあって、信太郎は興行主を継ぐのだが、観音一家の妨害は激しさを増す。
見かねて観音一家の組員に殴りかかった正一(待田京介)も、捕らえられて暴行を受ける。
平松興行は、報復を怖れる小屋主から興行を断られ続けるのだが、大正館の女主金原(宮城千賀子)は、こころよく小屋を貸してくれる。
しかし金原は観音一家に捕らえられて恐喝され、信太郎はしかたなく歌江一座を、観音一家の朝日座に渡すことになった。
窮地に立った信太郎に、人気絶頂の浪曲師で、幼なじみの梅芳(村田英雄)が力を貸してくれることになった。梅芳は地方巡業を断って、大正館に出演する。ところが、満員の客席に紛れ込んだ観音一家の組員が火事騒ぎを起こして公演は中断。大正館は一カ月の営業停止となった。
信太郎が梅芳の違約金三千円の捻出に腐心しているとき、旅に出ていた銀次(長門裕之)が信太郎を訪ねてきた。銀次はかつての聖天一家の客分であり、歌江の恋人でもある。
気をきかせた信太郎は、料亭で銀次と歌江が会えるようにとりはからう。ふたりは再会を喜ぶのだが、そのとき歌江は、違約金の一部を信太郎に渡そうと、青木に千五百円の借金をして体を任せる約束をしていた。
一方で正一は、信太郎の役に立とうと、小金を貯め込んでいる同僚の弁吉(藤山寛美)の懐から千五百円を拝借する。しかし、惚れている歌江が青木に金を借りたことを知ると、観音一家に乗り込んで、弁吉の千五百円を青木に突っ返す。
親分や組員の前で恥をかいた青木は、刺客を差し向けて正一を刺すのだった。
その頃、銀次は歌江に別れを告げ、喜三郎と示し合わせて殴り込みをかける。
銀次は料亭で遊ぶ青木を倒して警察に捕まり、喜三郎は観音一家に乗り込んで組員を斬りまくるのだが、風間の拳銃に倒れる。
観音一家の横暴にたまりかねた浅草の小屋主たちは、信太郎に大正館での大震災記念興行を依頼する。華やかな興行がはじまったとき、殴り込みを決意した信太郎は、弁吉を媒酌人に、千沙子と祝言を挙げた。
朝日座では、風間が記念興行に出演する予定の歌江一座を脅して足止めしている。人気者の出演が遅れた大正館では、梅芳が飛び入り参加でその穴を埋め、浅草じゅうの客を集める。
歌江は舞台から事情を説明し、一座は大勢の観客たちに守られながら大正館へと移動する。
歌江一座に逃げられた観音一家がその後を追おうとしたとき、長刀を帯びた信太郎と、平松の形見の拳銃を手にした弁吉が朝日座に乗り込んでくる。
大トリに歌江一座を迎えた記念興行が大成功を収めた頃、信太郎は死闘の末に風間の息の根を止める。信太郎は追いすがる新妻の千沙子と別れて、弁吉とともに警官隊の縛につくのだった。
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郷愁溢れる大正末期、浅草六区の興行界が舞台。
堅気になっても任侠の世界に生きている島田正吾と長門裕之の殴り込みがあって、そのあとで健さんが打ち損じた悪親分を片付けるという構成なので、任侠映画としてのストレートなカタルシスは薄いのですが、その代わり興行や舞台の世界に生きる人々の人情がたっぷり描かれます。
当時の芝居小屋や舞台の様子、バックステージが垣間見られるのも楽しいし、健さんと浪曲師の村田英雄との友情や、ロミ山田のキリッとした女芸人っぷり、宮城千賀子の気っぷのよさ、藤山寛美の泣き笑い芸と、見どころも豊富。
藤山寛美が宴会で踊る、みごとな泥鰌掬いは、マキノ得意の宴会芸の猿踊り――それも、マキノ直伝っぽいニホンザルの猿踊りなのが嬉しい。
東映任侠映画にはそれほど出演本数がない島田正吾演じる老侠客の、味わい深い演技と殴り込みも感涙ものです。
内田朝雄が自殺したあとで、健さんを中心に残された朝日座の人々が一堂に会して、その後のことを相談する場面があるんですが、ここではカメラを移動させながら、かなりの長廻しが使われています。
決意を語る健さんにグーッとカメラが寄って、健さんが皆を見渡すとスーッとカメラが引いて全員の反応を収め、そこに報せを持った栄作(井上昭文)が飛び込んでくると、彼にカメラが寄って、それにショックを受けた健さんのバストショットに切り替わって……と、この場面、マキノがどういうタイミングでカメラを動かしてショットをつなぎ、物語を語るのかという、好例になっています。
こういう流れを見ていると、もちろんマキノはジャンルや物語が求める「絵」を作ってはいるのだけれど、構図の取り方やカメラの置き方、カットのつなぎかたなんかは、登場人物の主観によるものではなく、空気のように見えないけれどそこにいる人の視点なのではないか。
共同体の仲間であり、主人公や仲間たちに共感している「そこにいる人」=観客が、なにを見たいのか、注視したいのかという、(登場人物にではなく)観客への感情移入を大原則にして、その情動をフォローしたり、あるいは巧みに先導することにテクニックを奉仕させているのではないか、と思うのです。
脚本も充実。
千五百円の金をめぐって、いろんな人々の思惑が錯綜してハラハラさせて、それが殴り込みの引き金になるという巧みな作劇は、硬直した物語をどう転がせばおもしろくなるのかを教えてくれるかのよう。
主題歌をバックにした殴り込みの道行きという、(すでに定番化しかけていた)任侠映画のパターンを避けて、村田英雄の浪曲に観客が殺到する様子と、ロミ山田の一座の脱走劇を重ねて描いて、クライマックスをお祭り騒ぎで盛り上げるのも、逆に新鮮に感じられます。
最後の殴り込みが、「道成寺」の華やかな舞台装置を背景に、サラリと進行するのも、またいいんだな。
女の侠気はロミ山田や宮城千賀子にすべて任せて、藤純子は残酷なまでに無垢な娘役。
当時の撮影エピソードなんかを読むと、こういう罪深い無邪気さが当時の藤純子の「地」だったという気がします。
(CS鑑賞 2008/05/19記)