帰ってきた モニターの中の映画館

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ごろつき

監督: マキノ雅弘 

1968年

企画: 俊藤浩滋, 矢部恒
脚本: 石松愛弘
撮影: 飯村雅彦
音楽: 渡辺岳夫
主題歌: 高倉健「望郷子守唄」
出演: 高倉健, 菅原文太, 大木実, 吉村実子, 石山健二郎, 潮健児, 田中春男, 渡辺文雄, 八名信夫, 三益愛子, 金子信雄, 清川虹子, 曽根晴美, 沢彰謙, 澤村忠


★★★キワっぽい最後の現代劇

この映画が作られた当時、主人公たちが働いていた筑豊炭田からそれほど離れていない町でぼくは子供時代を過ごしていたのだけれど、当時の筑豊は閉山が相次ぎ、生活に窮した労働者が自分の指を詰めて保険金を手にするといった事件がしばしば伝えられる悲惨な状況で、炭坑のある町での苦しい生活を描いたロングセラー「にあんちゃん」も、共感を持って読み継がれていました。
日本全国が画一的に小綺麗にされた現在から見ると、顔を真っ黒に塗った炭坑夫の高倉健と菅原文太のいかにも田舎者然とした演技は滑稽に見えるかもしれないけれど、炭坑労働の闇を社会が真摯に受け止めていたあの当時ならば、リアルな存在だったんじゃないかと思います。

病気の母(三益愛子)の滋養のために、高倉健の子役を演じる少年が自分の指を店先のスッポンに噛ませて家に持ち帰り、少年の孝心に心を打たれた店主の沢彰謙が、泣きながらスッポンを捌いて母親に勧めるというエピソードが妙になまなましくて、もしかすると実際の誰かの経験に取材したものかもしれない。
どん底の生活から這い上がるためにキックボクサーを志願するというのも、当時の流行に便乗した展開だとはいえ――映画の冒頭に映る角の丸いブラウン管の白黒画面のなかのボクシングの試合風景のノスタルジーがさらにそれを掻き立てるのだけれど――あの時代の日本に在った空気を感じさせます。

上京してボクシングジムに入門した主人公が出会うのは、時代の波に追われてテキ屋を廃業し、流しの歌手の元締めになった社長(石山健二郎)で、その流しの仕事もまた、有線放送の流行で絶滅の危機に瀕している。
ボクサーになって初の対戦試合に勝利し、前途を嘱望された高倉健が、恩を受けたこの社長の仇討ちのために、経済優先のやくざ(渡辺文雄)の組に殴り込みをかけるというのが、この映画のあらすじなのだけれど、その動機は任侠ドラマとしてとても弱い。

新宿の繁華街にある芸能事務所の古い建物を取り壊して、ビルを建てようというのが渡辺文雄の側の要求で、かつて石山健二郎に恩を受けた渡辺は、抵当権を押さえた建物の取り壊しを猶予している状況で、石山側の言い分は、ただ古いものを残しておきたいという感情に過ぎません。高倉に事情を聞かれた石山は、それ以上の主張ができずに、涙で言葉を詰まらせてしまう。

そんなドラマの弱さを補強するために、渡辺文雄を悪役に仕立てるあの手この手は、あまりにもこれ見よがしです。
高倉を応援する新聞配達の勤労少年を車ではねて、目撃者が大勢いる前で現場からフンと立ち去るなんてのは、あざとさが過ぎるというもの。おまけにやくざの側に立って示談を勧める弁護士は、見るからにうさんくさい金子信雄だし。

けっきょく石山の芸能事務所は不審火に見舞われて全焼するのだけれど、奇妙なのは渡辺側が放火の犯人だという証拠をまったく示さないまま、皆がやつの仕業だと決めつけてしまうことで、かつての任侠映画でさんざん、確かな証拠が見つかるまではと辛抱する我慢劇を見慣れた観客としては、不用意な展開のユルさに驚いてしまいます。

任侠劇の結構はもはや時代物としてしか成立しない時代遅れとなり、いざ舞台を現代に移してみると、人の気持ちという不確かなものに頼るしかないわけで、このユルさというのは、悪あがきはせずに失われゆく人情の機微を信じて、そこに全身で浸ってみてくださいという、マキノ雅弘のセンチメンタリズムなんですね。

本作がじつは、マキノ雅弘が撮った最後の現代劇であることを考えると、理屈に合ったドラマ作りを犠牲にしても、古き良き時代の共同体意識にすがりつかざるをえなかった晩年の状況にしんみりしてしまいます。
それでも枯れた演出に逃げるそぶりも見せずに、犬のキンタマにエアサロンパスを吹きかけたり、流しになって「高倉健」のヒット曲を歌ったりする、はつらつとした「ごろつき」の健さんの姿を見せてくれるのが嬉しい。

「キックの鬼」の澤村忠のゲスト出演まである、無理矢理導入されたボクシングの趣向に、マキノ作品らしいゆったりした叙情は押されてしまっているけれど、いかにも東映っぽい猥雑なキワモノの活気を楽しめる作品でもありました。

(DVD鑑賞 2008/5/12記)


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