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愛の報い (木曜ゴールデンドラマ 愛の報い)

監督: 田中登

1983年7月14日放送

脚本: 猪又憲吾
撮影: 森勝
美術: 渡辺平八郎
音楽: 岩間南平
出演: 桃井かおり, 風間杜夫, 蟹江敬三, 名古屋章, 宮下順子, 団しん也


★★★☆泥沼の愛

本作を観た夜の終演後に開催されたトークショーのゲストだった、風間杜夫さんのすぐそばで鑑賞。
克美しげるの愛人刺殺スキャンダル(1976)をドラマ化した作品。当人が刑期を終えて出所する少し前という時期に放映された、のだそうで、まさにキワモノ企画です。
実際は殺人事件なのに、ドラマは殺人未遂事件としてソフィスティケーションされている、というのは方便にしかなっていなくて、騙された女の断末魔の時間が延長されたぶんだけ、事件の凄惨さが強調される結果になっています。


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[ネタバレあらすじ]
風間杜夫が演じるのは、かつては青春ドラマのスターだったが、落ち目の境遇を紛らわすために賭博に狂って借金がかさみ、妻からもとうに見捨てられた男。
田舎から出てきたばかりのホステス(桃井かおり)を、甘い言葉で誘惑して、なけなしの貯金を搾り取ると、自分の再起のためにと偽って、こんどは女をトルコで働かせる。
男の誠意を信じて、女はますます盲目の愛の深みにはまるのだが、男は女を馬鹿な金ヅルだとしか思っていない。

そんなとき、風間に突然降って湧いたのが、大河ドラマの主役の話で、マネージャー(蟹江敬三)から身辺整理を迫れれた彼は、桃井を殺そうとするのだが、死体遺棄の工作中に、からくも蘇生した桃井が110番通報する。
逮捕された風間は、殺人未遂罪で起訴されるのだけれど、法廷での巧みな芝居と、検察側の風俗嬢に対する偏見から、世間の同情は風間に集まる。
金で男を縛り付け、大事な再起の時期に無理矢理結婚を迫った悪女にされてしまった桃井は、孤独な自殺を遂げるのだった……。

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主役の男女ふたりの出会いから破滅までを編年体で描く物語に、桃井の父親役の名古屋章が、静かに事件を回想するナレーションが重ねられて、予期される悲惨な結末がひたひたと迫ってくるサスペンスが、重苦しく全編を覆っています。
実話に取材した物語ならではのリアルな細部と、緻密な(というより、執拗な)演出、まさに適役の主演ふたりを得て、鬱々と展開するドラマの息苦しさは、『復讐するは我にあり』と肩を並べるんじゃないかと思うほど。

風間杜夫と桃井かおりが演じるのは、心は腐りきっているのに、甘いマスクで女心をくすぐる男と、馬鹿がつくほどお人好しで、愛することしか見えなくなってしまう女です。
普段からのっぺりして、なんだか心の見えない顔つきの風間から引き出された、根っからの「悪」のやりきれなさがすさまじいくて、あの手この手の金の無心に行き詰まると、突然女装をして女を笑わせ、メイク顔のままで女に、トルコで働け、と迫る狂態を見せる。

そんな男の非道をどう突っぱねても、ほろ酔いになるともう何もかも忘れて、あの独特のろれつの怪しいせりふ回しで男にしなだれかかってしまう桃井の演技は絶品で、この女の悲しい性(さが)が胸に迫ってきます。
そこに、狡猾だけど、どこか冷血に徹しきれないマネージャー役の蟹江敬三がからむと、主役の男女の怖さ、悲しさが、ますます引き立つ化学反応が起こるんです。

マネジメント事務所のふたりと、風間と桃井とで、年越しの麻雀をする場面での、男との生活に身も心もどっぷり浸って、あたしはもうどうなってもいい、これでしあわせなのよ、という感じの、桃井の倦怠感がすごい。
深夜に帰宅するという事務所のふたりに、腕からこぼれるほどのありったけの蜜柑を持たせようとする桃井の演技に、この女の底抜けの人の良さが滲むのだけれど、そんな彼女がまた騙されるのだとわかっている蟹江の、苦虫をかみつぶしたような笑顔もすばらしい。
翌日元旦の昼には、風間は蟹江にウソの電話をさせ、急な打ち合わせだと言い訳をして、娘の顔を見るために、いけしゃあしゃあと本妻宅に戻る。
そこにまた、憤りを抑えて、事実のみを淡々と語る、桃井の父、名古屋章のナレーションがかぶさって……。
……って具合に、すべてが(スタンダード・サイズの閉塞感さえも)悲劇の追い打ちをかける、濃厚きわまりなさ。

直前のプログラムで久しぶりに見直した『丑三つの村』が、なんだか爽やか青年の愚民粛清日記に思えて、非常に気分爽快だったんですけど、あのスプラッタ劇とさえも対照的に思えるほどのドロドロ感に覆われた、この欲望の底なし沼を見てしまうと、テレビに活動の場を移したあとも、田中登は終生、「極める」という性癖のなかに生きた監督だったんだな、と感じてしまいます。

(2007/4/12 ラピュタ阿佐ヶ谷にて 2009/6/6記)


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