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| 愛欲の罠 (朝日のようにさわやかに 桃色の狼) 監督: 大和屋竺 1973年 製作: 天象儀館, 荒戸源次郎 ★★★★ 荒戸源次郎の初プロデュース作品にして主演作、そして大和屋竺最後の監督作品。
(といっても、1994年当時、ぼくは映画をほとんど観ていない時期で、こんな上映会があったことを知りませんでした。上画像のチラシは、シネマアートン下北沢で『悲愁物語』を観た帰りに、劇場とつながった建物内にある古書ビビビで買い求めた「大和屋竺ダイナマイト傑作選」に挿まってたのです。) こうして本作は、「幻の映画」になってしまったのですが、原版は日活で厳重に保管されているはずであって、この世から消滅したというわけではなく、日活の買取契約にからむ軋轢などのために(加えて役者でもない自身の主演作だという気後れもあって)、荒戸氏サイドから原版探索のための積極的な働きかけがなされなかったから見つからなかった、というのが事の真相らしい。 ……といった経緯も知らず、本作がジェネオンからリリースされている「日活ロマンシリーズ」の2007年9月発売分のラインナップに加えられたときは驚いたのだけれど、その後、東京国立博物館敷地内に建てられた一角座で、「大和屋竺監督特集」の一本として上映されることが決まり、DVDは「ロマンシリーズ」ではなく、荒戸源次郎プロデュース作品として別枠で発売されることになり、代わりに「ロマンシリーズ」のラインナップには、大和屋竺脚本作品『セックス・ハンター 濡れた標的』(1972 沢田幸弘)が追加されるという、観客としては歓迎すべき展開を迎えたわけです。 さて、その「ダイナマイト傑作選」に挿まっていた無惨なバッテン入りのチラシを眺めながら、ますます羨望を募らせてしまったわずかその二年後に、一角座という絶好の舞台で本作と対面したのですが、期待を上回る、しかも予想を裏切るタイプの質感を持った秀作でした。 ニュープリントなのだから、当然といえば当然なのだが、シネスコ画面いっぱいに広がる、新作そのものの鮮やかな画質。 監督自身が起用したのだという、本来は有名なスチルカメラマンであった朝倉俊博に関しては、現場で撮り直しなどの一悶着があった(『ソドムの市』のサイトのガイラ・インタビューの「大和屋さんのこと」参照)ようなのだけれど、出来上がった作品からは、若松プロ作品にはなかった目新しさを感じます。 さて、『愛欲の罠』は、大和屋竺が中心人物の一人となって脚本が執筆された、鈴木清順の『殺しの烙印』(1967)の続編、として企画された作品です。 「ダイナマイト傑作選」に収録された脚本では、教会を舞台にした涜神的な殺人、切断ブーメランを使う殺し屋や、殺し屋団体満員乗車の観光バスの爆破など、さらに派手な趣向が田中脚本らしくパノラマチックに羅列されていて、いかにも大和屋竺の殺し屋ものっぽいアイディアの、ショーケースといった趣。 しかし、実際に映像化された作品を目にしてみても、まるで節操を欠いた殺し屋ものの集大成、というか、大和屋ふう奇想の一般仕様化、というか、韜晦なきアナザー『ピストルオペラ』、というか、かつての大和屋脚本作品の緻密な小宇宙が失われたことに、落胆する向きがあるかもしれない。 それらの取捨選択にも、あるいは作品全体から受ける印象にも、監督が自分の世界に作品を引き寄せる熱意を失ってしまったように思えてなりません。 『殺しの烙印』以降の大和屋竺の殺し屋ものというと、脚本家グループの具流八郎名義作品、未映画化作品、個人的な既見、未見作品もふくめて、『続・殺しのらくいん』(1967
脚本: 具流八郎 未映画化)、『毛の生えた拳銃』(1967 大和屋竺)、『処女ゲバゲバ』(1967 若松考二)、『裸の銃弾』(1967
若松考二)、『花弁のもだえ』(向井寛 1969)、『濡れ牡丹 五悪人暴行編』(1970 梅沢薫)といった流れがあるようなのですが、アクションもののシナリオを求められて大急ぎで執筆された『裸の銃弾』の時点でもすでに、殺し屋ものは大和屋竺的世界観の表象機能を失っていたように思います。 さらに引っかかるのは、この間に大和屋竺が、殺し屋ものの世界の延長にあるアニメ作品の脚本、映画版『ルパン三世』(1969 未映画化)、『ルパン三世
魔術師と呼ばれた男』(1971)を手がけていることです。 もう一つ、本作を観て感じたのは、以前の若松プロでの監督作とはまた別のマジック、鈴木清順の大正三部作と同じ匂いのする、荒戸源次郎プロデュース作の魔法圏に、本作があるということ。 殺された夢子(安田のぞみ)の股間に挿し込まれた造花の桜の、紅く染まった花を見て、「血の花を咲かせやがった」とつぶやくセリフは、大和屋のもののようでもあり、田中陽造のもののようでもあるのだけれど、すくなくとも主人公の星は『処女ゲバゲバ』の星のように、夜空を見上げて天空の機械に放り投げられた自分自身に思いを馳せたりはせず、フィルムを活劇的に走る抜けるのです。 (2007/8/18記)
*2 荒戸源次郎氏はトークショーで、この観客への一礼は自分が望んで付け加えたのだと語ったそうなのだが、それが脚本のト書きにも書かれているというのは、氏の記憶違いなのか、それとも氏が脚本にも参加したということなのか。いずれにせよ、このラストを容認する雰囲気が、現場に流れていたことは確かなのでしょう。
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