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愛欲の罠 (朝日のようにさわやかに 桃色の狼)

監督: 大和屋竺 

1973年

製作: 天象儀館, 荒戸源次郎
配給: 日活
脚本: 田中陽造
撮影: 朝倉俊博
撮影助手: 前田米造
撮影オペレータ: 小水一男
音楽: 杉田一夫
照明: 鈴木道夫
助監督: 白川健
出演: 荒戸源次郎, 絵沢萠子, 大和屋竺, 天野照子, 安田のぞみ, 小水一男, 秋山ミチヲ, 山本昌平, 中川梨絵, 山谷初男, 港雄一, 山本英明, 桜木徹郎, アンドレ・モアジイ


★★★★新しい大和屋世界

荒戸源次郎の初プロデュース作品にして主演作、そして大和屋竺最後の監督作品。
興行的にはにっかつと買取り契約を結び、ロマンポルノ作品として配給されました。
いつの間にか上映フィルムがなくなってしまったようで、1994年6月にアテネフランセで開催された「大和屋竺映画祭」での上映が予定されていたものの中止となり、当時のチラシにはマジックで墨塗り、バツ印が加えられています。

(といっても、1994年当時、ぼくは映画をほとんど観ていない時期で、こんな上映会があったことを知りませんでした。上画像のチラシは、シネマアートン下北沢で『悲愁物語』を観た帰りに、劇場とつながった建物内にある古書ビビビで買い求めた「大和屋竺ダイナマイト傑作選」に挿まってたのです。)

こうして本作は、「幻の映画」になってしまったのですが、原版は日活で厳重に保管されているはずであって、この世から消滅したというわけではなく、日活の買取契約にからむ軋轢などのために(加えて役者でもない自身の主演作だという気後れもあって)、荒戸氏サイドから原版探索のための積極的な働きかけがなされなかったから見つからなかった、というのが事の真相らしい。

……といった経緯も知らず、本作がジェネオンからリリースされている「日活ロマンシリーズ」の2007年9月発売分のラインナップに加えられたときは驚いたのだけれど、その後、東京国立博物館敷地内に建てられた一角座で、「大和屋竺監督特集」の一本として上映されることが決まり、DVDは「ロマンシリーズ」ではなく、荒戸源次郎プロデュース作品として別枠で発売されることになり、代わりに「ロマンシリーズ」のラインナップには、大和屋竺脚本作品『セックス・ハンター 濡れた標的』(1972 沢田幸弘)が追加されるという、観客としては歓迎すべき展開を迎えたわけです。

さて、その「ダイナマイト傑作選」に挿まっていた無惨なバッテン入りのチラシを眺めながら、ますます羨望を募らせてしまったわずかその二年後に、一角座という絶好の舞台で本作と対面したのですが、期待を上回る、しかも予想を裏切るタイプの質感を持った秀作でした。

ニュープリントなのだから、当然といえば当然なのだが、シネスコ画面いっぱいに広がる、新作そのものの鮮やかな画質。
建設中のビル屋上の工事現場から殺し屋の星がライフルで標的を狙う冒頭場面など、都市的な風景を取り入れたシャープな映像。あるいは現場を立ち去る星の自動車を、路肩からのパン撮影で追いかける場面の構図の明快な美しさ。
処女作『裏切りの季節』の冒頭近くの暗闇に映し出された白い飛行機の無機物の官能性みたいなおどろおどろしさは影を潜め、屈託のないビジュアル志向を感じさせます。その善し悪しをべつにして、やたらとイマっぽいのです。

監督自身が起用したのだという、本来は有名なスチルカメラマンであった朝倉俊博に関しては、現場で撮り直しなどの一悶着があった(『ソドムの市』のサイトのガイラ・インタビューの「大和屋さんのこと」参照)ようなのだけれど、出来上がった作品からは、若松プロ作品にはなかった目新しさを感じます。
これが大和屋竺の、新たな指向性*1 を反映した結果なのかどうかは、ぼくにはよくわからないけれども。

さて、『愛欲の罠』は、大和屋竺が中心人物の一人となって脚本が執筆された、鈴木清順の『殺しの烙印』(1967)の続編、として企画された作品です。
一匹狼の殺し屋だった星の評判が高まり、思いがけないミスによって逃亡生活を続ける彼に、殺し屋NO.1の座を狙った組織の殺し屋たちが、次々に挑戦を仕掛けてくる、という、大和屋竺の「殺し屋もの」をいくつか観た観客にとっては、おなじみの物語。
最初は大和屋自身が脚本を書こうとしたものの、多忙のために断念し、同じく『殺しの烙印』の脚本家グループ具流八郎の一人であった田中陽造が仕上げたのだそうです。

「ダイナマイト傑作選」に収録された脚本では、教会を舞台にした涜神的な殺人、切断ブーメランを使う殺し屋や、殺し屋団体満員乗車の観光バスの爆破など、さらに派手な趣向が田中脚本らしくパノラマチックに羅列されていて、いかにも大和屋竺の殺し屋ものっぽいアイディアの、ショーケースといった趣。
結果的にそれらは予算の制約なのか、実際の映画では削られていて、メインアイディアである不気味な大男と腹話術人形のコンビ(小水一男, 秋山ミチヲ)の殺し屋のエピソード以外は、九州弁の桜木徹郎との空気銃の対決のみが残されているのだけれど。

しかし、実際に映像化された作品を目にしてみても、まるで節操を欠いた殺し屋ものの集大成、というか、大和屋ふう奇想の一般仕様化、というか、韜晦なきアナザー『ピストルオペラ』、というか、かつての大和屋脚本作品の緻密な小宇宙が失われたことに、落胆する向きがあるかもしれない。
もう殺し屋ものでやることをやり尽くした末の、さよなら殺し屋もの、みたいだと思いながら観ていた印象が、星が映画館でボスをあっけなく射殺し、誰もいない客席(じつは映画の観客)に向かって深々と一礼するあのラストシーンで、腑に落ちてしまうのです *2

それらの取捨選択にも、あるいは作品全体から受ける印象にも、監督が自分の世界に作品を引き寄せる熱意を失ってしまったように思えてなりません。
たとえ、大男と人形の殺し屋コンビが、「機械のような」声と動きで非人間的な恐怖を捲き散らかそうと、あるいは頭の足りない娼婦役の魅力的な中川梨絵が、脚本には書かれていなかったにもかかわらず急遽ゲスト出演することになり、まるで「機械仕掛けの」オウムのように、カタコトの英会話を繰り返そうと、大和屋的意匠のダメ押しでしかないと感じられてしまう。

『殺しの烙印』以降の大和屋竺の殺し屋ものというと、脚本家グループの具流八郎名義作品、未映画化作品、個人的な既見、未見作品もふくめて、『続・殺しのらくいん』(1967 脚本: 具流八郎 未映画化)、『毛の生えた拳銃』(1967 大和屋竺)、『処女ゲバゲバ』(1967 若松考二)、『裸の銃弾』(1967 若松考二)、『花弁のもだえ』(向井寛 1969)、『濡れ牡丹 五悪人暴行編』(1970 梅沢薫)といった流れがあるようなのですが、アクションもののシナリオを求められて大急ぎで執筆された『裸の銃弾』の時点でもすでに、殺し屋ものは大和屋竺的世界観の表象機能を失っていたように思います。
あるいは、本作の空虚感は、限られた撮影期間内での取り直し作業が、現場の熱意を奪ってしまったせいかもしれず、主に前半部分で目についた性急なカットつなぎのいくつかも、その不運のあおりを喰らってしまったのではないか。

さらに引っかかるのは、この間に大和屋竺が、殺し屋ものの世界の延長にあるアニメ作品の脚本、映画版『ルパン三世』(1969 未映画化)、『ルパン三世 魔術師と呼ばれた男』(1971)を手がけていることです。
もしかすると大和屋竺の内部で、殺し屋ものはもやはアニメ的な自由でしか表現できない広がりを持っていたのかもしれない。
カメラマン朝倉俊博の起用も、アニメらしい整然とした画作りへの指向性との関連があるのかもしれない、というのは、まったく根拠のない憶測なのだけれど、『愛欲の罠』のどことなく静まりかえった画作りから受ける印象は、大和屋ファンを標榜する押井守のアニメに、どこか似ていないかと、思ってしまったのです。

もう一つ、本作を観て感じたのは、以前の若松プロでの監督作とはまた別のマジック、鈴木清順の大正三部作と同じ匂いのする、荒戸源次郎プロデュース作の魔法圏に、本作があるということ。
主人公本来の目的を置き去りにした、物語の漸進的横滑りという、大和屋竺の殺し屋ものとの見かけ上の共通性を持ちながら、逸脱した物語は世界の内側に隠匿された機械仕掛けをあぶり出すわけでもなく、ふとライフルのスコープを覗いた主人公が、死んだはずの愛人(絵沢萠子)の姿を認めてしまったり、あるいはふと鍵穴を覗いた主人公が、彼女を強姦する怪奇な腹話術人形の姿を見てしまったりと、筒型の暗渠の向こうにある「異界」に踏み込んでしまったとたんに始まった胎内巡りを、際限なく繰り広げるばかり。チョンと柝が打たれるまではやむことのない、あやかしの見世物。

殺された夢子(安田のぞみ)の股間に挿し込まれた造花の桜の、紅く染まった花を見て、「血の花を咲かせやがった」とつぶやくセリフは、大和屋のもののようでもあり、田中陽造のもののようでもあるのだけれど、すくなくとも主人公の星は『処女ゲバゲバ』の星のように、夜空を見上げて天空の機械に放り投げられた自分自身に思いを馳せたりはせず、フィルムを活劇的に走る抜けるのです。 (2007/8/18記)


*1 「もはや疑問の余地はない。娯楽産業に新機軸を打ち出さねばならない。こんど僕は、田中陽造脚本で映画を撮ることになった。製作は荒戸源次郎率いるところの株式会社天象儀館。上杉清文、秋山ミチヲ、桜木徹郎、杉田一男など人材が揃い、田中陽造も僕もその末席を汚しているが、その創成の宣言文は、『この二、三日間における文明の堕落ぶりは眼に余るものがある』という書き出しで始まっている。」
(「悪魔に委ねよ」(ワイズ出版刊)収録「ポルノ解禁!? その時こんな映画をつくりたい」(映画芸術1973年8月号掲載)より)

*2 荒戸源次郎氏はトークショーで、この観客への一礼は自分が望んで付け加えたのだと語ったそうなのだが、それが脚本のト書きにも書かれているというのは、氏の記憶違いなのか、それとも氏が脚本にも参加したということなのか。いずれにせよ、このラストを容認する雰囲気が、現場に流れていたことは確かなのでしょう。


(2007/8/11 一角座「大和屋竺監督特集」 9月2日(日)まで同館にて公開中)


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