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一条さゆり 濡れた欲情

監督: 神代辰巳

1972年


★★★★「仁義」の産みの母

「仁義なき戦い」の脚本化を任せられ、これまでにない表現を求めて四苦八苦していた笠原和夫が、「ここまでやっていいのだという、広島やくざを描く方向を教えられた」(「映画はやくざなり」新潮社刊)というのが本作。
たしかに本作を観ると、この映画が切り開いた表現なくして「仁義」はなかった、という確信を持つ。

最近のジャーナリズムでも、その虚像と実人生が話題になった「一条さゆりの半生を描いたセミドキュメンタリー」という惹句をどこかで読んで、そのつもりで観たのだが、まるで違っていた。
一条さゆり自身が登場して堂々たるストリップの舞台を披露し、じっさいに本人が遭遇したのだろういくつかの出来事をぎこちない演技で再現するのだけれど、本作の主人公は若いストリッパーの伊佐山ひろ子である。彼女がスター・一条さゆりへの嫉妬から、一条と自分を同一視する妄執にとらわれる、という話。

アナーキーかと思えば八方美人に転じ、わがままだけれどけなげで一途という、不思議な魅力の伊佐山の、男がいなくなるたびにコロコロと「顔」を変えて、代わりの男に乗り換える処世術がなまなましい。
伊佐山の役自体、ある女の人生をざっくりと切り取ったリアリティをもったものであり、ホンモノの一条さゆりの舞台をそっくり再現した部分と、俳優たちが演じる劇映画のリアリティが交錯して、虚構のレベルを混乱させる。

まるで「ホンモノ=一条さゆり」が虚像を演じ、「ニセモノ=俳優たち」が事実を演じているかのような「錯覚」を描くわけだが、「一条さゆりの真実」を知ってしまった今では、じつはこの映画は重ねられた虚構をとおして、「ホンモノ=一条さゆり」の虚構性をすっかり暴いていることに気づかざるをえない。神代辰巳の透徹した人間を見る目に、驚くばかり。

それにしても、ストーリーで登場人物のキャラクターを描くのではなく、人生の一瞬をあざやかに切り取ることで生身の「人間」を見せつける神代独特の手法は、今も色あせていない。
とくに猥陳罪で留置された警察署からレズショーの相手役(白川和子)とともに釈放されて、愛人(粟津號)とその兄貴とともにウダウダとダベりながら往来を歩くシーンの猥雑な活気は、忘れがたい印象を残す。

見返して気がついたが、このシーンで伊佐山が口にする、「人間ってだんだん変わっていくもんなんや」というセリフは、笠原和夫が「仁義」で描こうとした世界観とダブっているのだし、警察に追われた伊佐山が、衣装ケースに隠れておしっこを漏らし、裸で交差点に飛び出すクライマックスの痛切なズッコケ感覚は、「仁義」の世界へとみごとに直結している。

警察署の入り口で伊佐山がスッパダカになる、名高い「反権力的」ラストシーンは、今見るとあっさりしたものだ。むしろ短い後日談としてつけ加えられた、伊佐山のその後の舞台姿が、とてもチャーミングである。


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