帰ってきた モニターの中の映画館

日本映画>ピンク>ニュー・ジャック・アンド・ヴェティ (モダン夫婦生活讀本)

ニュー・ジャック・アンド・ヴェティ (モダン夫婦生活讀本)

監督: 沖島勲 

1969年

   

企画・製作: 若松孝二, 朝倉大介
脚本: 出口出 (沖島勲)
撮影: 伊東英男
照明: 磯貝一
編集: 中島勇
音楽: ホルモン・アート (秋山未痴男とホルモンアート)
助監督: 小水一男
出演: 矢島宏志, 加藤町子, 香取環, 松浦康, 江島裕子, 須磨ひとみ, 相原香識, 津崎公平


★★★★「あたりまえ」の覚醒

時代と斬り結ぶ熱い思いを感じさせながら、つかみどころのない飄々とした態度を示し、38年間に監督作が5本という信じがたい寡作家なのに、まるでプログラムピクチャーの監督のように条件に見合った規模の映画をさらりと製作し、人々の営みをモラリストの目で暖かく見守るように思わせながら、いつの間にか人生の残酷を赤裸々に暴いてしまう――普通では共存しえないものを、ごく自然体に共存させている、世にも不思議な映画監督、沖島勲の監督デビュー作。

沖島は当時、若松プロの共同ペンネームであった出口出の一人であり、本作の監督以前にも『性の放浪』、『性犯罪』(ともに1967)の脚本を執筆。また、若松孝二も、くだんの経済意識を発揮して、本作の軽井沢ロケに便乗するかたちで『裸の銃弾』を撮り上げています。
通常のピンク映画の規模で撮られた本作は、舞台を軽井沢のとある別荘のリビングルームにほぼ限定し、登場人物は(回想シーンに登場する温泉旅館の仲居さんを含めても)八名だけ、という室内劇です。

会社社長夫婦(津崎公平、香取環)とその娘(加藤町子)、彼女の婚約者(矢島宏志)とその母親(須磨ひとみ=『現代好色伝 テロルの季節』の団地主婦)、婚約者の伯父であり媒酌人でもある会社重役の夫婦(松浦康、江島裕子=『新宿マッド』の親切な娼婦)、という七名が、懇親を兼ねて結婚式の打ち合わせ行うために、別荘に集まるのだけれど、当の若いふたりはしっくりといかない様子。
母子家庭で育った苦労から、功利的な選択に身を任せる諦観を身につけた息子は、周囲のお膳立てで進められる結婚のむなしさから目をそらせているのだけれど、斜に構えたブルジョワの娘のほうは、世間並みの因習に最後の抵抗を示して、結婚のあり方についての疑念を投げかける。

なんという凡庸。まるですっかり気の抜けた一昔前の、(ノエル・カワードあたりの)風刺劇のつもりなのか。
横柄な会社社長に、会社の「番頭」的な重役さん、戦時の苦労を切々と訴える母親、奔放なアプレゲールの娘と、母親思いの息子という登場人物たちは、当時、つまりぼくの子供時代のホームドラマに登場して、テレビの画面を占拠したステロタイプそのものではないか。
……そう油断したこちらは、すでに沖島勲のトラップに引っかけられています。
夕食会が終わって、重役が酒乱の兆候を示したことをきっかけに、登場人物たちの鬱積した感情が堰を切って、とてつもない悪意が牙を剥きだし、あれよという間に事態は雪崩を打って、いったいどこに転がるのやら……。

このスラップスティックな展開に、見る者は驚嘆する。
登場人物たちの間に引き起こされた波乱が次々に連鎖するめまぐるしさ、それらが彼ら固有の問題を暴いていく手段の異常さ、容赦のなさ。
冒頭で示されたステロタイプ的な彼らの性格付けを見事にふまえたうえで、それらが見事にたたき壊される速度感は、生理的な快感を追い抜いて観る側を圧倒するのだけれど、そこまで静謐になりを潜めていたカメラワークが、突如仰角や俯瞰や斜めの構図を多用したり、不安定な手持ち撮影を導入したり、カラーや染色された妄想画面が、異物として挿入されたり、あるいはクラシカルな劇判が、プレグレッシヴふうに変貌を遂げたりと、映画ならではの周到な計算が配されている。

社長が重役と、元々は社長秘書であったその妻との休日の性生活に思いを馳せると、朝食の前のセックスから食卓の下での絡み合い、そして裸にエプロンで家事をこなす元秘書のあられもない姿へと、妄想は一気に飛躍し、しかもあろうことか、社長の妻もまで一緒になって、妄想シーンに対するコメントを付け加えはじめるというとんでもなさ!

社長夫人と元秘書がとっくみあいをはじめて収拾がつかなくなったまさにそのとき、部屋の片隅に呆然と立ちつくした息子の母親役の須磨ひとみが、なんの前触れもなく「ぞうさん」を朗唱しはじめる。
それに対する周囲の反応は、なんと、後にも先にもあんな歌を聴いたのは初めてだと、まるでこの世に「ぞうさん」という歌が存在しないかのように、彼らは振る舞う。それどころか「ぞうさん」は、性的欲望をこらえきれずにオナニーをする女が、思わず口にしてしまう自然発生的な猥歌にちがいないと、衝撃の結論を下されてしまうのです。

この設定の異様さは、まるでマリリン・モンローが存在しなかった世界を描いた、フィリップ・K・ディックの「時は乱れて」のようなパラレル世界のようであり、しかもそれが童謡「ぞうさん」の失われた世界だというのは、いったいいかなる狂気の沙汰なのか……。

DVDの特典映像に納められた監督インタビューでは、インタビュアーの高橋洋氏が、まさにこの異常な発想がなんであったのかを追求してくれています。
沖島勲はある女性から、裸になって「ぞうさん」という音楽をピアノで弾くのだという話を聞いて脚本に取り入れたものの、彼自身は「ぞうさん」という童謡をそれまで聞いたことがなく、てっきりその女性の想像の産物だと思い込んでしまったそうで、撮影中に役者が教えもしないのに「ぞうさん」を歌ったのを聞いて、もしかしたら有名な歌なのではないかと、うすうす感づいていたらしい。

「ぞうさん」がすっかり人口に膾炙した今となっては、想像もつかないミステイクなんですが、そんな致命的なミスが作品の瑕瑾となるどころか、ますますその不条理な魅力に拍車をかける結果となったというのは、手札の一つや二つがひっくり返ってもビクともしないほど、この映画のすべての要素が堅固な確信に支えられているからなのでしょう。

親族、主従、老若男女が入り乱れたスワッピングが繰り広げられる別荘に、「誰も見てないぞ」という天の声が響き渡る不思議な結末は、しかしよく考えれば、個別の生を生きてこそ人間だという正論が示されるにすぎません。
常識の破壊と不条理の果てに物語が帰着したところは、じつは冒頭の設定が暗示した、世間にあふれるありふれたドラマが、したり顔をして主張するであろう、ごくありふれた結末だったという皮肉。

あたりまえのことは、あたりまえであるからこそ、あたりまえに主張しても誰の頭も覚醒できないということを、沖島勲はそれこそがあたりまえだと言ってみせるのです。 (DVD鑑賞 2007/9/4記)


【沖島勲フィルモグラフィ】
1969 ニュー・ジャック・アンド・ヴェティ (モダン夫婦生活讀本)
1989 出張
1995 したくて、したくて、たまらない、女。
1999 YYK論争 永遠の“誤解”
2007 一万年、後....。


< 目次に戻る

Google