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愛のむきだし

監督: 園子温 

2009年

原案・脚本: 園子温
撮影: 谷川創平
音楽: 原田智英
主題歌: ゆらゆら帝国
出演: 西島隆弘, 満島ひかり, 安藤サクラ, 尾上寛之, 清水優, 永岡佑, 広澤草, 玄覺悠子, 中村麻美, 渡辺真起子, 渡部篤郎


★★★★西洋人には発想できないキリスト教映画という転倒

上映時間は237分でも「体感時間は90分」と監督自身が言っているのだけれど、これはホントにそのとおりだと思いました。
退屈をする間がなくて、時の経つのを忘れてしまうという意味でも。
あるいは、90分ほどの映画程度しか、中身というものがないという意味でも。

そう、あまりにもすっからかんで意味がない。
宗教(しかもカトリックのキリスト教)を扱いながら、宗教的な教義に即した受難や悟りや神秘や法悦が描かれるわけでもなくて、たいした含みもない、なにかと交換可能な題材としてのキリスト教の浅はかな援用があるだけ。
――その中身のなさが、ありえないくらいにすばらしい!

たとえば、西洋文化圏の映画作家が宗教を題材に選んだとき、いったい誰が、日常のなかに崇高なものを見いだし、あるいは宗教的ななにかを日常に求める、といった思索を通さずに作品を構想できるでしょうか。
宗教という、見上げるべきものが作るヒエラルキーの内部での上下運動が、必ずそこには伴っていて、たとえ涜神的な内容の作品であっても、たんなる上下の転倒にすぎません。
なのに、この映画には、気持ちのいいくらい見上げるものがない。
宗教的経験も個人的経験も、変態もノーマルも、カトリックもカルト教団も、敬神も涜神も、愛も憎しみも、愛撫も流血も、みんなごった混ぜたるつぼのなかの世界です。

近代宗教は、本当にすべてを救えるのか。
だったらなぜ、教義から逸脱する宗教者や、人間愛から逸脱した宗教的行為がありえるのか。
日々の生活から宗教への帰納と、神の教えから日常への演繹という整備された往復から、なにかがこぼれていくのではないか。
そう、中身のない、意味のないこと――なぜだかわからないけれどやってしまう性癖やら、押さえきれない執着やら、救いきれなかった無意識やら、言語の意味体系からこぼれてしまうものやら(流行りの言葉でいえば、クオリアの問題ですか)――厳密で、合理的であればあるほど科学に近づいてしまうものから疎外されたそれらこそ、じつはわれわれの日常のほとんどを充たしているものなのではないでしょうか。

主人公の西島隆弘が、父親の神父、渡部篤郎から押しつけられた、なにもない日常からことさら罪の意識を探すという作業は、まさにこの、中身がないゆえに救いようのない日常に救いをもたらすためのレッスンになっていて、そこから立ち上がるヘンタイの世界への同化を、親しみのある問題にしているのです。

もっとシリアスな外見の圧縮された作品にしようと思えばできたところを、ことさらガキっぽい学園ものやら、マンガっぽい発想のヘンタイ道場やら、永井豪ふうのパンチラやら、安っぽい不良ドラマやら、使い古されたカルト宗教ものやら、中身のないものの羅列にこだわって尺を長くした意味はそこにあるのだし、そこには、上映時間4時間をかけて宗教を扱っても、あえて宗教に寄りかからないストイシズムがある。
満島ひかりの聖なるパンチラには感嘆。あのばかばかしさは、涜神バイオレンス/ギャグ満載の『聖獣学園』(鈴木則文)や『絶倫ギャル やる気ムンムン』(滝田洋二郎)を凌駕するすばらしさです。

とにかく、大人が考えるに足りない幼稚な衝動だとみなされている、あれやこれやの欲望と執着について、ぼくはこの映画にずいぶん救ってもらった気がしています。ああ、スカッとした。

単純な娯楽活劇としては、前半の「さそり」の登場までがすさまじい面白さ。「奇跡」までのカウントダウンの末に炸裂するアクションが嬉しくてたまらず、思わず足踏みしてしまうほど興奮しました。
主演のふたり(西島隆弘、満島ひかり)の、俗っぽい、媚びたような容姿と、想像を超えて肉欲というものを表現する渡辺真起子の、不可解だが信じられる存在感が最高にいい。
ただし、渡部篤郎の言動の一部説明のつかない飛躍は、ひょっとして題材の着想が手塚治虫の「MW」を経過した痕跡なのかと思ったし、安藤サクラの粘着質の悪役ぶりも忘れがたい強烈さなのだけれど、作劇的には、悪役のために作った悪役になりすぎているように思います。もうすこし筋の通った存在理由が彼女にあれば、壮絶な最期にカタルシスが加わったのに。
でもその、投げやりで力の抜けた具合までもが、それでいいと思ってしまえる映画です。


(2009/2/19 ユーロスペース 2009/2/27記)


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