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| 父親たちの星条旗 監督: クリント・イーストウッド Clint Eastwood 2006年 製作: Clint Eastwood, Robert Lorenz, Steven Spielberg
★★★★ 二部作として公開された『父親たちの星条旗』と『硫黄島からの手紙』は、劇的な内容にもかかわらず、できること、やるべきことを淡々と積み重ねていくイーストウッドの誠実さと向き合っているかのような、静かで力強い映画でした。 この二部作が「戦争映画」であることに間違いはありません。しかし、ほとんど終始戦場を舞台にした『硫黄島からの手紙』に対して、『父親たちの星条旗』でじっさいに描かれているのは、戦争の裏で行われた世論の操作にまつわるドラマであり、戦争によって生みだされたアメリカンヒーローの幻想と現実です。そのことはイーストウッド自身、戦後アメリカの世相が希求したアメリカンヒーローの矛盾を現実に生きた人であったことと無関係ではないでしょう。 原作本の著者であるジェイムズ・ブラッドリーが生き残った兵士たちを取材する現在の視点と、ヒーローに祭り上げられた三人の兵士による過去の現在ともいうべき視点、そして彼らの硫黄島の戦場での過去の体験が頻繁にフラッシュバックする構成は、一見すると必要以上に複雑で、これは戦争を描く、あるいはアメリカンヒーローを描く娯楽映画として、マイナスの要素になるのかもしれません。 物語は直線的に語られることなく、ときには繰り返しを含みながら、現在、過去の現在、過去をせわしく往復し、硫黄島の星条旗にまつわる真実を徐々に解き明かしながら、衛生下士官ジョン・ブラッドリー(トーマス・マッカーシー)が硫黄島の戦場で受けたショックに引き戻されることで、語りの流れが一巡したかのような印象を受けます。 こうした形式が使われた映画として、真っ先に思い出されるのは『スローターハウス5』(ジョージ・ロイ・ヒル、1972)で、ドレスデン空爆と戦後の現実社会、そしてSF的未来(?)を頻繁に往復する主人公を描いたこの映画の構造は、『父親たちの星条旗』と驚くほど似ています。 もう一つ、『スローターハウス5』との興味深い類似は、三人の兵士の一人、功利的な人生を選んだレイニー・ギャグノン(ジェシー・ブラッドフォード)の結婚のエピソードで、大衆的な単純さを疑いもなく受け入れた彼の結婚相手を、まるで『スローターハウス5』の主人公の愚かな妻をなぞるかのように、イーストウッドはこれがアメリカン・ドリームの現実だといわんばかりにグロテスクに誇張して描くのだけれど、これは別に語られるべきテーマでしょう。 さて、『スローターハウス5』や『父親たちの星条旗』でつかわれたこの循環する語り口は、斬新な手法のように思われがちなのだけれど、たとえば19世紀の初頭に発表された幻想文学の祖といわれている小説「サラゴサ手稿 *1」でも、すでに用いられているものです。 こうした無限循環の手法を、近年、最も正統的に使っている映画監督は、デヴィッド・リンチであって、たとえばローラ・パーマーの死体へとあくことない循環を繰り返す『ツイン・ピークス』がその典型でしょう。 『父親たちの星条旗』でも、「過去の現在」(三人の兵士が英雄に祭りあげられていく過程)を主軸にして、この円環する時間の方法が使われているのだといえます。 もちろんそこには『硫黄島からの手紙』において、塹壕の底が抜けて日本軍の洞窟に堕ちたイギーが虐殺される様子が描かれていることも合わせた、作り手のバランス感覚が働いているのだと思います。しかし、結果的には、幻想の源となるべき事実の核を欠いたことで、異化された現実がとめどなく拡散していく、という印象を受けます。ハリウッド映画らしさを取り繕うような見せかけの結末に反して、過去と現在を往還するたびに国債プロモーションをめぐる現実は細分化され、それぞれのその後の成り行きを観客の想像に委ねたまま、曖昧なままで放置されます。 こうした放置の感覚は、たとえば、硫黄島の擂鉢山の頂上に最初の星条旗が立てられたときに、厳かに感動的な音楽が鳴り響くのだけれど、第二の星条旗(=父親たちの星条旗)が立てられたときには音楽が鳴らず、しらけた現実的なムードのなかでピューリッツア賞を受賞した有名な写真が撮影されるという、皮肉な対比にも見られます。 この、アメリカン・ニューシネマの特徴でもあった、苦い事実を曖昧なままに放棄する手法に、ニューシネマの申し子のようなイーストウッドが長けているのは当然かもしれません。しかし、イーストウッドは、さらにそこから一歩踏み込んで、曖昧なままで放置された存在に自分自身を重ね合わせようとする、マゾヒスティックな感覚さえも備えているような気がしてなりません。 『ダーティハリー』シリーズ(1971-1988)をはじめとする作品で、イーストウッドが演じたアメリカンヒーローは、現実のヒーローがいなくなった戦後のアメリカで希求された、虚構の存在でした。 70年代から80年代にかけて、もはやパロディ寸前の存在になっていくヒーロー像を、イーストウッドは適度な「ダーティ」感覚を交え、ときには笑いを取る絶妙の曖昧さで演じていたのだけれど、この曖昧さが「曖昧な存在」への肩入れにつながったと言い切るのは、単純すぎるでしょうか 作り手のテーマへの共感を過度に求める観客の期待に対して、得意だからそれを描く、という見方は身も蓋もないけれど、創作者の現実というものはそういうものだと思うのだし、ことにイーストウッドには、そんな感傷的な思い入れを寄せ付けない身も蓋もなさがふさわしい気がします。
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