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ハリウッド映画>ホラー・怪談>悪魔のいけにえ2

悪魔のいけにえ2
The Texas Chainsaw Massacre 2

監督: トビー・フーパーTobe Hooper

1986年

製作: Menahem Golan, Yoram Globus
脚本: L.M. Kit Carson
撮影: Richard Kooris
特殊メイク: Tom Savini
音楽: Tobe Hooper, Jerry Lambert
出演: Dennis Hopper, Caroline Williams, Bill Johnson, Jim Siedow, Bill Moseley


★★★★前作とは別ものの傑作

あの名作、「悪魔のいけにえ」(1974)の続編として比較されざるをえないことが本作の不幸で、単独の作品としてみれば、じつにみごとな快作。
前作の設定を受けて、残酷描写をクレイジーに誇張しながらも、前作とはまったく別の創作原理に基づきながら、娯楽映画のツボをきちんと突いてみせる姿勢がすばらしい。

ここで唐突に、普段なんとなく思っていることを言葉にしてしまうと、ぼくはハリウッド製エンターテインメントの最も重要な要素は、経験論 vs 観念論のバトル・ショーだと思っている。
つまりアメリカという国は、経験論を礎に成り立っていて、アメリカ人は娯楽作品のなかで経験論と観念論を闘わせ、経験論の勝利を繰り返し見届けることで、その国に属する喜びを噛みしめているのだと。

ヴォルテールが小説「カンディード」で高らかに謳歌した経験論の勝利は、レナード・バーンスタインのミュージカル「キャンディード」(1957)によって大衆的にショーアップされることになるのだし、おなじく経験論が観念論を屈服させる物語であるバーナード・ショーの戯曲「ピグマリオン」は、「マイ・フェア・レディ」(1964)として翻案されて好評を博すことになる。
アメリカ映画のなかで観念論は、形骸化した伝統や学識、組織的陰謀、得体の知れない仮想敵、盲目的大衆、狂信、マスメディア、拝金主義、巨大産業、などに次々と姿を変えながら、その時代にふさわしい悪の相貌を与えられるのだが、最後にはきまって、自由の国にふさわしい個人主義やピューリタン的な勤勉に根ざした経験論者によって打倒されることになる。

なぜこんな話になってしまったかというと、本作は、正義として描かれるべき捜査官(デニス・ホッパー)が狂信的な観念論者として、悪として描かれるべき狂人一家が、地道に食肉業を経営する実務的な経験論者として描かれている逆転コメディになっているからで、描写自体は陰惨の極みであるにもかかわらず、ちぐはぐな善と悪の一挙一動に、爆笑を誘われてしまう。

しかし逆転は所詮逆転であって、エンタテインメントとしては悪として描かれた善であるデニス・ホッパーが勝っても、善として描かれた悪である狂人一家が勝ってもまとまりがつかず、しかも狂人一家もまた、わけのわからない狂信や拝金主義に毒されているのだから、善として描かれた悪だけれど結局は悪であるという複雑な存在なわけで、観る側はしだいに、いったいどちらに肩入れをすればいいのか、途方に暮れてしまう。
そんな混乱のなかで立ち上がるのが、「生き残る」という目的以外をすべて棄てたことで、「超」経験論者としての資格を身に付けたヒロインのDJ(キャロライン・ウィリアムス)であって、彼女が突如猛反撃を開始する本作の結末は、だからこそ痛快きわまりない。

そのうえこのヒロインときたら、一部メタル頭のチョップトッパーを倒し、物語中の「超越者」の地位を獲得するのだけれど、そのとたんに前作では終始「超越者」であったレザー・フェイスのチェーンソー・ダンスを踊ってしまうのだから、じつは続編としても、奇跡的な成功を収めている。
本作が思う存分狂っていながら、ハリウッドが潜在的に望んでやまないエンタテインメントの着地点へアクロバティックな着地を果たしていることに、観る側は思いきり溜飲を下げて褒めたたえるべきだと思う。


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