★★★★
ハリウッドの洗練とモラルの後退
マッケリー監督による『邂逅(めぐりあい)』
(1939)のセルフ・リメイク。
本作は、その後もメグ・ライアンとトム・ハンクス主演の『めぐり逢えたら』(監督: ノーラ・エフロン、1993)の原案になり、『めぐり逢い』(監督:
グレン・ゴードン・キャロン、1994)としてもリメイクされています。
まったく同じストーリーの『邂逅』と続けて観ても、主役ふたり(ケイリー・グラント、デボラ・カー)の魅力とテクニカラー・ワイドスクリーンの美しさに圧倒されて、すこしも退屈しません。
ストーリーの細部や人物の扱いには、入念な補強が施されていて、ハリウッド映画というものが20年間でどう変わったのかが、手に取るようにわかる面白さもある。
まず違うのが、『邂逅』に含まれた飛躍や説明不足を、徹底的に潰した脚本の完成度の高さで、この時期になるとマッケリーのような即興的な演出家でも、工業製品的な精度の要求に従っているんですね。
もう一つ、決定的に違うのが、主役のふたりの描かれ方。
ひたすら軽く、女に翻弄される受け身の存在だったシャルル・ボワイエのプレイボーイに対して、グラントが演じるそれは、ヒロインの崇拝の対象となり、自己を動じさせない強固な信念を持った男になっています。
旧作のカップルの言動を支えていた「ピンク・シャンパンに馴染んだ生活」を続けたいというハイソな精神は消滅して、グラントは男性一般のモラルを体現する存在になっているんですね。
交通事故で体が不自由になった女が、ひたすら身を隠して堪え忍ぶという動機もまた、「ピンク・シャンパン精神」から、デボラ・カーの体現するモラリティに置き換えられています。
彼女のような、知的で温厚で女性らしい人なら、男に迷惑をかけない選択をするだろうという、有無を言わせぬ了解のなかで、ドラマが成立しているのです。
この歪みの延長上に、60年代の奇妙に誇張されたハリウッドがやってくるのだという映画史の流れを、『邂逅』と『めぐり逢い』の比較が感じさせてくれます。
とはいえ、作品そのものは、集団創作物としてのハリウッド映画の充実の極み。
いくつかの反共映画を作った(未見)という以外、際だった作家性を持たないレオ・マッケリーの総合的な演出力の高さが納得できます。
(ヒッチやラングやオフュルスらの外人部隊は除いた)ハリウッド芸術の頂点に、フォード、ホークス、ミネリがいるとして、その直下のランク――キューカー、マンキーウィッツと並ぶくらいの巨匠なんじゃないかと、今さらながら思いました。
(DVD鑑賞 2009/6/9記)