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アデルの恋の物語

監督: フランソワ・トリュフォー

1975年


★★★★いくつかの奇跡

コスチュームプレイであり、しかも歴史的な人物とその娘の手紙のやりとりが、大西洋を隔てて交わされる映画だったと覚えていたから、公開されて間もなく観た頃の記憶をたどると、大作映画のような印象があったのだが、観直してみるとじつに簡素な表現で成り立った映画だ。

ワイプやオーバーラップを駆使した、息せき切った展開や、暗い色調の閉鎖的な背景が主体になる美術設計は、すべてがヒロインであるアデル(イザベル・アジャーニ)へと視線を集約する役割をみごとに果たしているのだし、その結果として彼女の一挙一動そのものが、雄弁に彼女の内面を語りはじめる。
ヒロインの見えない声にあふれた場面を見つめていると、彼女が父親や恋人に宛てた手紙の文面を読み上げる肉声や、あるいは心境を語るナレーションのほうが、「説明」ではなくてむしろ「行為」であるという、ありえない逆転を感じないだろうか。

「それは私が撮った中でもっとも美しい顔の一つだった」と、本作の撮影監督であるネストール・アルメンドロスが述懐している(「キャメラを持った男」(筑摩書房刊))アジャーニは、たとえば催眠術師の楽屋を訪れる場面などでは、本心から緊張しきってしきりに瞬きをしているのだし、サンダース夫人の下宿を出たあとで身を寄せた慈善施設でベッドからずり落ちる動作を見ると、ほんとうに足腰が立たないほど弱っているのだと信じさせるのだし、アリファックスの街角やカリブ海の島をさまよい歩く際の挙動は、本職の医師が見ても欺かれるのではと思うほど、忘我の狂気に没入しきっている。

デビュー間もない女優にありがちな、彼女の憑依型の演技をカメラに収めることに、もしかするとこの映画の熟練した作り手たちはドキュメンタリー的な興味を交えたのかもしれず、そのために、いかにも凡百のメロドラマに陥りがちな物語を持つこの映画は、ヒロインを見上げることも見下げることもしない、定まった視点を保ちえたのかもしれない。
(演劇の舞台では、そういった危ういバランス感覚が芝居全体を活気づける偶然に、しばしばめぐり会うものだ。)

若さゆえの無謀を内に秘めて、敏捷な肉食獣のようにも見えたヒロインのアクションが、驚くほどの速度で掻き乱され、ついには精神が枯渇して、外見的にも静的な存在になりはてたのちに、再び彼女を劇的なクライマックスの舞台に引き上げるのは、困難きわまりない課題だったろう。
しかしトリュフォーとアルメンドロスは、カリブ海の街に溢れる強烈な陽光や色彩、ヒロインが一方的な恋情を寄せるピンンン中尉付きの下士官が、士官たちが思い思いに歓談する宿泊施設の中庭を螺旋状に歩き回りながらピンソンを探すワンショットのスペクタクルや、白っぽい壁に囲まれた迷路のような路地を、ピンソンがアジャーニを追跡するサスペンスといった映像的な見せ場の末に、ふたりの最後の出会いを置くことによって、物語の流れを乱すことなく、この難題をみごとにクリアする。

ラストで用いられた、鳥瞰的な視点から物語の時間を一気に飛躍させる手法は、「恋のエチュード」(1971)でも用いられたものだが、語り手自身がそれを行う「恋のエチュード」での哀切きわまりない効果からは一歩後退して、必要以上に醒めた印象を与える。
映画が終幕する以前に、観客にアデルと自分を切り離す余裕を与えてしまうのは、大きなキズではないとはいえ、失敗ではないかという気がしてしまう。

音楽には、「舞踏会の手帳」でも聞いた、初期映画音楽の改革者、モーリス・ジョベール(1900-1940)の既成の作品が使われていて、楽曲の乾いた叙情と活気が、これも活劇めいている(今日の耳で聞いても新鮮な作品で、マイケル・ナイマンの音楽にも似ている)。
音楽家に付随音楽を任せるのではなく、(本当のことは知らないがたぶん)監督自身が自分の意図に合った音楽を指定したのだろうことから、音楽が演出の真意をあからさまにする場面も多い。

とくにアジャーニが恋人の情事を、物陰から窓越しに覗き見する場面に、急テンポの舞曲があてられるのは、恋人の裏切り(彼女にしてみれば)の現場という、普通ならば心に深い傷を負わせるであろう情景を目撃しても、もはや自分の心の動きとは別個の、たんなる外界の喧噪としてしか、その事実を見ることができない、狂気に陥りつつある人の内面を的確に表している。
窓の中の男女の行為を見つめながら、画面が暗転する直前に、アジャーニがニヤリと笑みを浮かべる描写に至っては、(このことについてはほかの、よりふさわしい作品を見たときに詳しく考えたいと思うのだが)情熱や狂気に身を任せることそのものに安堵感を得るという、トリュフォー作品に共通する倒錯を感じさせる。

こういった一種の冷徹な視線が垣間見えることは、たんに対象を突き放したというのではなく、たとえば精神医学の心得がある伝記作家がアデル・ユゴーの伝記を書いたとして、できるかぎりの同情を寄せて筆を進めながらも、つい職能を発揮した一節を読みとったときのような妙味でもあり、トリュフォーの映画のおもしろさは、いつも読書の深い喜びと無縁ではない。

上掲のアルメンドロスの本によると本作には、フランス語で撮影したものと、カットごとにその場で英語による同じ演技を繰り返したものと、二つのヴァージョンが存在するのだそうで、このDVDはアルメンドロスが推薦する英語ヴァージョン。


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