★★★★★
異様な呪力にみちた映画
2006年6月15日にアテネフランセ文化センターでの上映会で観て、のちに米盤中古VHSで観直しました。
公開順序からすれば『雲ながるるはてに』の次回作に当たる作品ですが、同作なかでミネリが担当したパートの撮影は45年の10月に終わっていたので、実質的にサスペンス・メロドラマ『底流』の次に撮られた作品です。
産休後のジュディの復帰作としてミネリが選んだのは、S・N・ベールマンのコスチュームプレイのミュージカル版 "The Pirate"
の映画化でした。
映画化にあたっては、大幅に脚本が書き改められ、コール・ポーターのスコアが使われることで、舞台版の内容を一新したものになったそうです。
以下***線内はネタバレのあらすじです。
*******************************************************
19世紀のカリブ海のある島。
叔父夫婦に育てられた若く美しいマヌエラ(ジュディ・ガーランド)は、今日も本を開いては伝説の海賊・マココへの憧れを友達に語っている。
そこへ駆け込んできたのは叔母のイネス(グラディス・クーパー)。マヌエラの縁談が決まったというのだ。
相手は新しく市長に就任したドン・ペドロ・ヴァルガス(ウォルター・スレザック)。金持ちで割腹のいい紳士である。さっそく花嫁候補の家を訪問してきたドン・ペドロは、マヌエラに優雅なデザインの婚約指輪をプレゼントする。
結婚というものへの実感が湧かないマヌエラは、喜びよりも戸惑いを隠しきれない。港町に用足しに行くというイネスの言葉を聞き、マヌエラは結婚前に憧れのカリブの海を見たいと嘆願する。
マヌエラがイネスとともに港町に着いたその日、港にはセラフィン(ジーン・ケリー)の旅芸人一座が上陸した。セラフィンは女たちに声をかけては、歌と踊りで興行を宣伝する。
堤防からカリブの海をうっとりと眺めていたマヌエラもセラフィンにしつこく言い寄られるが、彼女は結婚を控えた身だと言って相手にしない。
その夜マヌエラが泊まった宿が面した広場から、セラフィン一座の開幕を告げる呼び声が聞こえてくる。
マヌエラは好奇心からこっそり宿を抜け出して、芝居のテントに潜り込む。
舞台袖から彼女の顔を見つけたセラフィンは、急遽演目を変更して催眠術ショーを始める。
彼が目の前にミラーボールをかざすと、すぐさま催眠状態に陥ってしまったマヌエラは、問われるままに名前と住所、そしてじつは結婚をしたくないのだと答える。
本当に好きな男の名前を質問されて、海賊マココの名前をつぶやいたマヌエラは興奮状態になり、マココへの思いを歌いあげながら、テント内をところ狭しと踊り狂う。
マヌエラの催眠術が解けないことに困り果てたセラフィンが、思わず彼女に口づけをすると、やっと自分を取り戻した彼女は、慌てて宿に駆け戻る。ベッドの叔母をたたき起こして、すぐに家に帰りたいと泣き叫ぶ。
自宅で結婚の準備を進めるマヌエラが、ふとカリブの思い出に浸ったとき、窓の外から聞き覚えのある旅一座の音楽が聞こえてくる。なんとセラフィン一座が、興行にやってきたのだ。
屋敷の二階の窓にマヌエラの姿を認めたセラフィンは、向かいの家から彼女の部屋のベランダに張られた綱を渡って、強引に部屋へ侵入する。
イネスから事情を聞いたドン・ペドロは、セラフィンを殺しかねない剣幕で彼に鞭をふるう。
それでも落ち着き払ったセラフィンが、いきなりマココの名を叫ぶと、ドン・ペドロは慌てふためく。
じつはドン・ペドロは、海賊業を引退したマココだった。かつてセラフィンは海賊たちに襲われて殺されかけたことがあり、マココの顔と声を憶えていたのだ。
今や形勢は逆転。セラフィンがドン・ペドロの過去を暴けば、死刑は必死である。
ドン・ペドロはセラフィンの言いなりになって、市民に旅一座の興行を歓迎すると呼びかける。
そのうえセラフィンは、マヌエラの関心を惹きたいがために、自分こそがじつはマココなのだと名乗りを上げる。弱みを握られたドン・ペドロは彼に刃向かえない。
騒ぎを聞いて駆けつけた警官たちを、セラフィンは得意の芝居で威圧して追い払ってしまう。
マヌエラは自室の窓から、人々が逃げ出した広場で勝利のダンスを踊るセラフィンの姿を見て、彼が海賊として略奪と殺戮を行う白日夢を見る。
マココになりすましたセラフィンは広場に人々を集め、マヌエラを自分に差し出さなければ町を焼き払うと脅しをかける。
町を救うために悲劇のヒロインとなって、マココに身を捧げるため、彼が占拠した市長邸へ向かうマヌエラ。
そんな彼女に町の人々は敬意を払うのだが、じつはマヌエラの心は、自分がひそかに思い続けた男のものになる喜びに浮き立っている。
屋敷の客間でマココを待つマヌエラに、若い役者のトゥリロが声をかける。
トゥリロはマヌエラがセラフィンの芝居を本気にしているとは思わず、セラフィンが芝居をしていること、催眠術によってセラフィンが彼女のマココへの思いを知ったことを、ペラペラとしゃべってしまう。
自分が騙されたことを知ったマヌエラは、部屋に入ってきたセラフィンを海賊として褒め殺し、ついには彼が芝居をしていたことを白状させる。怒り狂って部屋じゅうの彫像や花瓶や絵や家具、ついには斧を、セラフィンに投げつけるマヌエラ。
頭上に落ちてきた額縁で失神したふりをしたセラフィンを、マヌエラは抱きしめ、たとえ役者であってもあなたを愛してしまったと告白する。
抱き合ったふたりが口づけを交わしていたその頃、ドン・ペドロは総督とともにセラフィンの芝居小屋に向かっている。じつはセラフィンは一計を案じ、過去に自分が略奪した宝物を、セラフィンのトランクの中に入れておいたのだった。
芝居小屋で海賊の盗品という動かぬ証拠を見つけた総督は、兵士たちを引き連れて市長邸に向かい、セラフィンを逮捕する。
セラフィンの公開処刑の日。
叔母とともに家にこもっていたマヌエラは、いたたまれず表に駆けだし、提督にセラフィンの無罪を訴えるのだが、聞き入れられない。これが証拠の品だと見せられた宝石の中に、彼女はドン・ペドロから送られた婚約指輪とまったく同じデザインの腕輪を見つける。もしかして、ドン・ペドロこそマココなのかと、マヌエラは気づきはじめる。
そのときセラフィンは、処刑される前に役者として最後の舞台を披露したいと申し出て、提督に認められる。
広場に設置されていたテント小屋の幕が開き、セラフィンはニコラス・ブラザーズとの華麗なダンスで、群衆の喝采を浴びる。続いて彼が持ち出したのは、催眠術のミラーボールで、彼はドン・ペドロに催眠術をかけて、公衆の前で自白をさせるつもりだった。
ところがマヌエラから催眠術の話を聞いていたイネスは、セラフィンが妖しい術を使うのだと思い、彼に駆け寄って日傘でミラーボールを叩き割ってしまう。
ドン・ペドロにかけた術も解け、絶体絶命のピンチを迎えたセラフィン。
そのときマヌエラは機転を利かせて、自分が催眠術にかかったふりをして舞台に上り、セラフィンに向かって海賊マココへの愛を滔々と訴える。
自分の偽物がマヌエラから崇められ、熱い口づけを受ける様子を見て、頭に血が上ったドン・ペドロは舞台に駆け上がり、自分こそが本当のマココだと絶叫する。
短銃を構えてセラフィンを狙うマココのドン・ペドロは、役者たちから小道具を投げつけられ、ついに捕らえられた。
……そして。
旅一座の舞台には、夫婦で仲良く道化の歌を歌い踊るセラフィンとマヌエラの姿があった。
*******************************************************
目にも鮮やかなテクニカラーの色彩。贅を凝らしたクラシカルなセット。スタンダードサイズの完成形ともいえる、美しい構図の連続。ファンタスティックな物語。物語を彩る、コール・ポーターのすばらしい楽曲。優雅でダイナミックなダンスシーン。
そしてなによりも、ジュディ・ガーランドとジーン・ケリーの共演。
本作は『若草の頃』(1944)以降の、大人になったジュディをとらえた、ごく限られた数の作品のなかの貴重な一本であり、ファンには見逃せないはずです。
意欲満々のジーン・ケリーは、がっしりとした体躯を、まるで重力を無視したかのように軽々と動かす曲芸的な跳躍や、説得力にみちた豪快なダンスで、見るものを圧倒します
(彼の演技は、かつての海賊映画のスター、ダグラス・フェアバンクスにオマージュを捧げたものだそうです)。
海賊マココ役には、性格俳優のウォルター・スレザックが配され、アクの強いコミカルな演技を見せてくれます (この人は、初期はカール・ドライヤーの『ミカエル』(1924)から、『恋の情報網』(1942)、『救命艇』(1944)などを経て、晩年は80年代のテレビシリーズへの出演まで、長いキャリアを持つ名優です)。
まさに問答無用のミュージカルの古典となるべき作品なんですね。普通だったら。
しかし約380万ドルという破格の製作費をかけ、二大スター共演の看板を掲げて、ミネリとケリーが絶対の自信を持って世に送り出したにもかかわらず、公開当時本作は、それほどヒットしませんでした。
その後も熱心なミュージカルファンがジーン・ケリーの超絶的なダンス(あるいはケリーを上回る技量の持ち主、ニコラス・ブラザーズ *1との共演)に注目する以外は、あまり話題に上ることがありません。
実際に本作を観れば、その理由がわかる気がします。
「明るく楽しいMGM映画」であるはずなのに、観ていて気持ちが少しも浮き立たないのです。
それほどミュージカル好きでもないぼくは、ずっと昔にたぶん『ザッツ・エンタテインメント』 で見たはずの、ケリーとジュディが歌い踊る「ビー・ア・クラウン」というナンバーをこの映画のラストに発見して、懐かしさに浸った、というわけでもありません。
それどころか、なにか憑き物が憑いたような、異様で奇怪な印象を受けて、とんでもないものを見たという気持ちになりました。
そういう気持ちにさせられる映画というのは、ほとんどが低予算のB級映画に集中しているのですが、これは珍しくメジャー大作であり、しかもミュージカル・コメディであるにもかかわらず、複雑な感情にとらわれてしまったのです。
まず本作で使われた不思議な色彩。
初めて観たときの印象を思い出してみると、それらはけっして毒々しいわけではなく、絵画的な趣味のよさで統一されてはいるのですが、それらがたんに映された「物」の表面に張り付いた色ではなく、「物」から離れてそれ自体がなにかを語るように見えたことが、とても気味悪く思えたものです。
ストーリー自体は、大筋ではうまく伏線を回収しているとはいえ、ヒロインの心理の流れに飛躍があり、納得できるものではありません。
そういった断絶を、色彩の象徴性、流麗なカメラの動き、あるいはクラシック作品らしいグラフィックの一致の多用といった、映画の底流にある語りの要素によってかなり強引にまとめあげ、小宇宙的な世界を作ろうとしているかのように感じられました。
これは今から思えば、細部に全体を宿し、全体を細部に反映させようとするミネリの、強い意志の表れであり、本作はそれが最も強固に発揮された一例なのだと思います。
あるいは、書物で語られた伝説の海賊にひたすら思いを寄せるヒロインの奇妙な情熱が招き寄せる、夢遊病状態や白日夢といった非日常世界が、現実と切れ目なく導入されることにも、まだミネリの作品を見慣れていなかったぼくはショックを受けました。
深紅の炎に彩られた、幻想のなかの海賊の略奪は、過剰な爆発の煙の中に包まれて、セラフィンのマジックショーの一部であるかのようにも見えます。
ここにも意識と無意識の世界を一つながりに描こうとするミネリの意思が、破綻すれすれで貫かれようとしています。
しかし、本作で最も強烈な異物感を示すのは、ヒロインであるジュディ・ガーランドその人です。
理想の男性である海賊マココに奪われることを夢見る、深窓の令嬢を演じたこの映画の彼女は絶えずピリピリして、誰かまわず掴みかかってやろうと身構えているかのようです。
まるで作品を破壊しかねない彼女の演技を理解するためには、本作の製作時の状況についても触れなければならないでしょう。
1945年6月15日にミネリと結婚し、翌年3月12日に女児(ライザ・ミネリ)を出産したジュディは、産休明けの初仕事として、同年12月から本作のリハーサルに入りました。
最初は熱心に仕事に取り組んでいたものの、相手役のジーン・ケリーの意欲的な姿勢を見て、彼女は態度を一変させます。ケリーが自分の役を盗むつもりではないのかという、妄想を抱いてしまったのです。
やがてジュディは仕事をさぼるようになり、ミネリの結婚以来の誇りが、彼女の薬物中毒をやめさせたことだったにもかかわらず、少女期からのハードスケジュールを乗り切り、会社から要求されたダイエットを実行するために常用していた薬物に、ふたたび依存するようになります。
一方のケリーは、振付師のロバート・アルトンを手伝い、彼がゲストに熱望したタップダンスの名手、ニコラス・ブラザーズの至芸に学んで自身の芸を磨きつつ、ミネリとの共同作業の姿勢を強めていました。ジュディは彼らの仕事から取り残されたと感じ、ミネリの演出指示を無視するようになります。
ミネリは苦悩しながらも、問題が自然に解決することを期待しつつ、さらに仕事に打ち込んでいきます。
そんなミネリを見たジュディは、ますます夫とケリーの関係に嫉妬し、ケリーに接近することで二人を引き裂こうとします。
「あなたとヴィンセントはずいぶんお楽しみね」と、ジュディは口をとがらせてジーンに言った。「二人とも、私を無視してるわ。ねえ、私のために何かしてくださらない?
私のミュージカルシーンを演出するとか」
「ヴィンセントに頼んだらどうなんだい?」と彼は尋ねた。
「いや。私はあなたにやってほしいのよ」と、ジュディは言った。
(Vincente Minnelli "I Remember It Well" より)
夫婦の激しい争いに巻き込まれたケリーは中立の立場を示し、ジュディはますます孤立感を深めます。
自分は利用されているのだとスタッフの前で騒ぎ立て、撮影を中断させたこともあったそうです。
彼女は本格的にパラノイアの症状を示し、皆がグルになって自分を破滅に追い込もうとし、自分の母親までが電話を盗聴したと訴えました。さらにはミネリがケリーに対して必要以上の親密さを求める様子を見て、彼らがホモセクシュアルな関係にあるのではないかとさえ疑っていました。
本作の撮影を終えた後、ジュディは精神病の療養所で、2週間の集中治療を受けることになります。
――こうしたジュディの錯乱は、フィルムからも痛いほどに伝わってきます。
ヴァージンの役柄であるはずのマヌエラが、不意な結婚に対する畏れと憧れを示すべきシーン、強引に自分の部屋に侵入してきたセラフィンに対して恐怖を示すべきシーン、あるいは自分のひそかな願望が叶って、海賊マココのもとへ嫁げるのだと、うきうきと身支度をするべきシーンなど、そうした軽やかに演じるべきシーンを、ことごとく一本調子に、激しく目を剥いて演じています。
さらに映画のなかで彼女が錯乱するシーン――セラフィンの催眠術にかけられて、マココへの憧れを歌い踊るシーン、あるいはセラフィンの嘘を見破り、彼に部屋中の器物を投げつけるシーン――に至っては、完全に目が据わって、妄想と暴力の虜になっているといった様子です。
ミネリは脚本家を取り替えながら、ジュディの状態に合わせてストーリーや役柄に随時手を加えたのだそうで、これは彼女の夫である彼にしか、できなかった配慮なのでしょう。
goo映画のこのページには、1936年に公開された『踊る海賊』
("Dancing Pirate" RKO製作、ロイド・コリガン監督作品)のシノプシスが掲載されているのですが、もしこちらが舞台版に近いのだとしたら、ほとんど原形をとどめないほどの大幅な改編だといえます。
しかし家族としての愛情と思いやりを示しながらも、他方では監督として作品の価値を高めなければならなかったミネリは、無慈悲にも(しかし芸術家としては当然の行為として)、あきらかにジュディのそういった危機的状態を「利用」しています。
セラフィンから催眠術にかけられた彼女が歌う "マック・ザ・ブラック" *2
の、見るものをおびえさせるような迫真性は、このときの彼女にしか出せないものであり、結果的に本作で最も強烈な印象を残すシーンになっています。
また自室に面した広場に、彼女が海賊ケリーの白日夢を見るシーンは、ファンタスティックという感慨を越えて、メルヘンというものが本質的に秘めた恐怖をあきらかにします。
いや、パラノイア的なシーンにとどまらず、本作のすべての場面での彼女は、まるで催眠術師ミネリに誘導される、凶暴な夢遊病者のようです。
妻への愛と作品への執念の板挟みになって苦悩しながら創造に身を削るミネリ、実生活で妄想に取り憑かれた自分を作品のなかでも演じなければならなかったジュディ、そして最後には製作全般に関わるようになったのだという野心満々のケリーという、三者三様の精神的昂揚が衝突して化学変化を起こした本作は、ミュージカル・ファンの心を和ませるような作品にはなりませんでした。
しかし、商業性を重視する会社が課した枠組みのなかで、誰も経験したことがない世界を絶えず切り開こうとしたミネリの強靱な意志を最も端的に顕した作品であり、彼が「最もパーソナルな作品だ」と自認する『炎の人ゴッホ』以上に、じつはパーソナルな作品なのかもしれません。
*1 本作でのニコラス・ブラザーズは、ジーン・ケリーの引き立て役にとどまっています。彼らの超人的なタップは、国内盤の『遥かなるアルゼンチン』で堪能できます。参考動画
『遥かなるアルゼンチン』より
http://www.youtube.com/watch?v=vkFFGo4tAWU
"Stormy Weather" より
http://www.youtube.com/watch?v=_8yGGtVKrD8
*2 本来この場面では "ブードゥー" という曲が歌われていたのですが、それがあまりにエロチックだと判断したメイヤーは、差し替え・撮り直しを命じたのだそうです。カットされたトラックはサウンドトラック盤に収録されている模様。無理なのだろうけど、できることなら映像を観てみたいものです。
参考資料
Vincente Minnelli: "I Remember It Well"
Stephen Harvey: "Directed by Vincente Minnelli"
"The Pirate: Gene Kelly's Vehicle" http://www.emanuellevy.com/article.php?articleID=2810
"Gene and Judy Go Wild!" http://www.brightlightsfilm.com/52/pirate.htm
(22 September, 2006 ©taraga)