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蜘蛛の巣
The Cobweb

監督: ヴィンセント・ミネリ Vincente Minnelli

1955年

製作: John Houseman
原作: William Gibson
脚色: Jan Paxton
撮影: George J. Folsey
音楽: Leonard Rosenman
出演: Richard Widmark, Lauren Bacall, Charles Boyer, Gloria Grahame, Lillian Gish, John Kerr, Oscar Levant, Susan Strasberg, Tommy Rettig, Paul Stewart, Jarma Lewis, Adele Jergens, Edgar Stehli, Sandy Descher, Bert Freed


★★★☆後期メロドラマの源流

ウィリアム・ギブソン(サイバーパンクの作家とは別人)の同名小説の映画化。
精神病の療養所を舞台に繰り広げられる、医者と患者のドラマです。
過去(1970年)にテレビ放映された際には、「蜘蛛の巣――狂った関係」というサブタイトルが付いていたようです。
米盤LD(廃盤)が過去に出ていただけで、国内で観る機会はほとんどありません。米国のオークション・サイトで落札したDVD-Rで鑑賞しました。

6人の主要人物の身辺に起こった出来事をパラレルに描く物語は、(それこそ蜘蛛の巣のように) 込み入っているので、細かい部分がなかなか理解できないし、時系列で書いても混乱してしまいそうです。
以下***内は、ネタバレの要約。


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舞台になるのは、軽度の精神病者を扱う、郊外の豪華な療養施設。一人の青年が脱走を企てる場面から、物語は始まる。

・彼、スティーヴン(ジョン・カー)は、美術的な才能がある繊細な青年で、激しい感情の振幅をコントロールできずに苦しんでいる。病院の現状を鋭く感じ取り、患者よりも医師や看護婦が病んでいると批判する。

・カレン(グロリア・グラハム)は、この施設の医師であるスチュワート・マッカイバーの妻。自動車で職場の夫を訪問する途中で、逃亡中のスティーヴンを見つけて病院へ送り届ける。多忙な夫にかまってもらえずに欲求不満がつのり、家事や育児を放棄している。スティーヴンからは色情狂だと嫌がられる。

・スチュワート・マッカイバー(リチャード・ウィドマーク)はやり手の医師で、実質的な病院のリーダーである。開放的な治療を目指し、患者たちに自治会を作らせて成果を上げている。家庭では、ふたりの子どもの面倒をみない、ヒステリックな妻に手を焼いているが、その原因が自分にもあるとは気づいていない。

・ダグラス・N・ドヴァナル(シャルル・ボワイエ)は、初老の医務局長。かつては第一線で活躍したものの、今は治療にほとんど携わらず、院内で権力を誇示しては煙たがられている。女と酒に目がなく、秘書とも関係がある。マッカイバーに対抗意識を持っている。

・ヴィクトリア・インチ、通称ヴィッキー(リリアン・ギッシュ)は、病院の会計面を掌握する事務職のオールド・ミス。自分が病院の秩序そのものだと信じ、自分の判断を頑固に主張して譲らない。

・メグ(ローレン・バコール)は、最近入職した若い事務担当者。真面目で前向きだが、夫と子どもを事故で亡くしたという暗い過去を持つ。

以上6人の主要人物たちに加えて、対人恐怖症の少女(スーザン・フトラスバーグ)や、母親依存症の男(オスカー・レヴァント)など患者たちの姿や、マッカイバー家の家庭内状況も点描される。

――さてドラマは、病院の図書館のカーテンの取り替えが検討されたことから始まる。
インチは経済を優先し、質素な綿のカーテンを業者に発注する。
マッカイバー医師が主催する患者の自治会では、患者たちが選んだカーテンに、スティーヴンの図案をプリントすることが決定する。
一方でカレンは、夫のマッカイバー医師に自分の手腕を示そうと思い、ドヴァナルに相談して高価なサテンの生地を購入する。
その結果……。

・ヴィクトリア・インチは自分の決定事項の正しさをヒステリックに主張し、あらゆる人々の説得にも耳をかさない。最終的に、マッカイバー医師の強引な説得でカーテンを返品し、病院の現状への不満をつのらせる。

・マッカイバーは、妻がカーテン生地を買ったことを知らず、夫婦生活はすれ違いを続ける。スティーヴンの図案のカーテン作りを担当したメグと頻繁に接するうちに、彼女に惹かれはじめる。

・ドヴァナルはカーテンにこと寄せてカレンに接近し、彼女を抱こうとして拒否される。インチからも現在の自分の無能さを鋭く指摘され、酒浸りになる。

・メグはマッカイバーと接するうちにお互いの孤独を共有し、恋愛感情を抱きはじめる。なかば自分から誘惑するかたちで、マッカイバーと関係を持ってしまう。

・カレンはマッカイバーの浮気に気づき、絶望する。やり場のない気持ちをぶつけるかのように、夜更けの病院に自分が買ったカーテン生地を持ち込み、こっそりと図書館の窓に取り付けてしまう。

・スティーヴンは自分の図案のカーテンの製作が進んでいることや、対人恐怖症のスー(スーザン・フトラスバーグ)をデートに誘えたことで、病状を安定させている。しかしいつのまにか別のカーテンが取り付けられているのを見て、ふたたび感情を爆発させる。

そして……。
スティーヴンはカーテン製作の作業場を破壊し、病院を脱走して行方不明になる。
彼の自殺を心配し、懸命の捜索を続けるマッカイバーとメグは、深刻な事態を前にして、自分たちの関係にけりをつける。
責任を感じたカレンも捜索に加わり、ひさしぶりに夫と向き合う機会を得る。
一方でヴィクトリア・インチは、ドヴァナルに対する異議申し立て書を作成し、ドナヴァル本人と運営委員会に提出する。ドナヴァルは辞職を表明する。
マッカイバー夫妻は自宅の車庫で、今にも倒れそうなスティーヴンを発見する。夫婦は気持ちを一つにして、かいがいしく彼の世話をする。
スティーヴンはマッカイバーが取り外したカレンのカーテン生地にくるまって、深い眠りに落ちるのだった。

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映画が始まってタイトルロールが流れた直後に、「トラブルは始まった」という文字がインポーズされます。
やがてカーテンをめぐる事件が、上記のような決着を見せると、「トラブルは終わった」という文字が出て、映画は終わります。
この、いかにもわざとらしい形式的な宣告に反して、登場人物それぞれが抱えるトラブルは、依然として継続したままであることが、結末に不安を残します。
ミネリ自身が「ニューロティックな音楽を」と指示したのだという、レナード・ローゼンマンの大仰で不安げなスコアが、さらに後味の悪さをあおります。

しかも、自分が置かれた現状に不満を持ってそれを爆発させる、ミネリ作品の典型的な登場人物が、本作ではなんと 6人+α(患者たち) に大増殖してるんですね。
けれども、それに応じて見応えが充実した、という気が少しもしないのは、彼らの深刻なフラストレーションを、物語が処理しきれずに終わってしまうからです。
リチャード・ウィドマークが演じるマッカイバー医師がいちおうの主人公とされているのも、彼の主観に割かれる時間が圧倒的に多いからではなく、劇中で最も安定した人格の持ち主だと感じさせるからに過ぎないのだけれど、そんな彼でさえも、家族の問題や不倫関係に苦悩して、問題を残します。

かといってこの映画はけっして退屈な代物ではなく、最後まで異様な迫力で観る者を惹きつけてしまうのですが、それはストーリー全体が持つ魅力によるものではなく、ストーリーが一瞬も目を離せない、(蜘蛛の巣のように)緊密な織物として語られているからです。

(各作品のシノプシスがないのがガイドブックとしては不便なものの) 最も充実したミネリ作品の解説書である Stephen Harvey の "Directed by Vincente Minneli" に目を通してみると、セットデザインが作品の精神を表すと考えていたミネリは、表面的に意識されない部分にまで演出を行き届かせることに注力していたようです。
たとえば、ヴィッキーが選んだカーテンのコットン布地は、彼女の不毛な内面生活を反映し、カレンのアンティーク・サテンのチッペンデイル・ローズは、欲求不満の女性の象徴であり、スティーヴンの図柄の神経質な描線と鮮やかな彩色は、先の見えない病院生活と青春期の豊かさとに重なっているのだそうで、なるほどそう考えれば、スティーヴンがカレンの買ったカーテンに包まれて眠る(欲求不満のエネルギーが慈愛に変換される)結末も納得できます。

しかしあまりに多くの複雑な問題を詰め込んだ物語は余裕に乏しく、性急に分断される各エピソードは味気なさを感じさせます。
じつはミネリは150分の上映時間を主張したのですが、ハウスマンは120分にまとめることを要求し、けっきょくは試写会の反応を見た会社から123分にカットされたのだそうで、 監督が意図とした本来の姿は失われているのです(134分のヴァージョンも存在するようなのですが)。
精神病院内の描写やセクシュアルな表現に対する検閲の厳しさもあり、ミネリとしては納得のいくプロダクトではなかったようです。

こういったあきらかに問題を含む主題を扱うにあたっても、同じく精神病院を舞台にしたロバート・ロッセンの『リリス』(大傑作!)のような詩的なムードに傾かず、細部のリアリズムと美意識に没頭し、そこに象徴を込めるというミネリの方法は、いくぶん不器用に感じられます。
しかし、そういったかたくなな姿勢の延長から、後期の『肉体の遺産』、『走り来る人々』、『黙示録の四騎士』、『明日になれば他人』といった、他の誰にも作れないメロドラマが生まれたわけで、本作は後期ミネリの孤高の傑作群の源流になっているのだとも考えられます。

また本作は、ミネリが初めて手がけた、ミュージカルではないワイド/カラー作品です。
色彩にこだわるミネリが本作でも、色(とくに赤)を効果的に使っているのはもちろんですが、シネマスコープの画面でドラマを語るにあたって、彼はカット割りを最小限に抑えるという、ミュージカル演出の基本をそのまま導入しているようです。
院内の錯綜した状況を幅広い画面のなかに一度に収めることで描写を圧縮し、心理的な距離感を人物の配置で表現し、俳優の持続した演技をそのままフィルムに収め、しかも画面内のすべてのセットや小道具に象徴的な意味を持たせようとする手の込んだ手法は、のちの『炎の人ゴッホ』で完成されることになります。

さてふたたび "Directed by Vincente Minneli" によると、本作のリチャード・ウィドマーク、ローレン・バコール、グロリア・グラハム、ジョン・カーという主役陣は、当初はロバート・テイラー、ラナ・ターナー、グレイス・ケリー、ジェイムズ・ディーンが予定されていたのだそうで、もしそれが実現していたら、本作はよりメロドラマティックな、親しみやすい作品になっていたのでしょう。

しかしとりわけ、当初はグレイス・ケリーが演じるはずだったマッカイバー医師の妻、カレン役を、強烈な個性を持つグロリア・グラハムが演じたことで、この作品は奇妙な生々しい印象を強めています。
いつも肩がずり落ちそうなドレスを着て、性的不満を持つ主婦という役割にぴったりの、男をねだるような媚態をたたえた彼女は、ドヴァナルの誘惑を退けたことが意外に思えるほどの、淫蕩そのものといった存在感で、周囲を巻き込みながら状況をゆがめていきます。

かたや性的に枯渇したヴィクトリア・インチ(リリアン・ギッシュ)は、カレンの対称に位置する存在であり、院内の歪んだ関係を無慈悲に分断しようとします。
他作品での聖女めいたイメージを覆す、本作でのギッシュの怪物的な演技は、『カッコーの巣の上で』で鬼婦長を演じたルイーズ・フレッチャーを思わせるもので、彼女がドヴァナルを退陣に追い込むシーンの静かな迫力は、本作の実質的なクライマックスを形作っています。

スティーヴン役のジョン・カーは、ブロードウェイの舞台「お茶と同情」で注目されて本作でデビューし、翌年のミネリ作品『お茶と同情』で主演したのですが、本作で精神病患者を演じ、次回作がホモセクシュアル役と、世間的にマイナスイメージの役柄が続いた俳優なんですね。
同じく本作でデビューしたスーザン・ストラスバーグは、いかにも腺病質な少女を演じて、鮮烈な印象を与えます。
他に、ドヴァナルの辛抱強い妻役として、『キング・コング』のフェイ・レイが出演しています。

(28 August, 2006 ©taraga)


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