★★★☆
予想外に奥深い作品
またまた輸入レンタル落ちビデオでの鑑賞。
ブロードウェイでヒットしたロバート・アンダーソン原作のストレート・プレイ(1953)を映画化したのが本作。
ハリウッドのメジャー映画で初めて、同性愛をテーマに据えた作品なのだそうです。
製作開始以前から MPAA(Motion Picture Association of America、アメリカ映画協会)に目を付けられていた、当時としては挑戦的な題材を取り扱うにあたって、MGMはできるだけ舞台を再現し、主要な役柄(トム、ローラ、ビル)には舞台と同じ俳優(ジョン・カー、デボラ・カー、リーフ・エリクソン)を起用する、という方針を立てました。
舞台で練り上げられた彼らの演技は完璧であり、とくに複雑な愛憎のなかで揺れ動く人妻の心理を繊細に表現したデボラ・カーは、驚くべき名演技で見る者を魅了します。
当然ながら、当時の映画業界の厳しい倫理規制下では、主人公をあからさまにゲイとして描き、年上の女性が少年に胸を触らせるというラストシーンを持つ原作戯曲をそのまま映像化することはできませんでした。自作の戯曲を映画脚本化したロバート・アンダーソン(あるいはハリウッドでの彼の助言者)は、巧みな操作を加えて、検閲の網を賢くすり抜けることに成功しています。
しかし結果的に、そのことが時代を隔てた異国人の目から見た本作を、きわめてわかりにくいものにしています。
当時の米国の同性愛に対する倫理観を反映して、間接表現を含んだ戯曲を映画化するにあたっては、さらに厳しい検閲をクリアするための表現の置き換えが重ねられたはずで、しかもそれを
(具体的なことは知らないけれど NNDB
によると) 彼自身もバイセクシュアルだったらしいミネリが表現した本作が、本当は何を意図して作られたのか。
それを考えると、途方に暮れてしまいます (そんなこと以前に、英語のセリフが理解できてないんですけどね)。
普通にこの映画を観て、読みとれたあらすじは以下の通りです (結末までネタバレ)。
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[配役]
トム(学生) …… ジョン・カー
ローラ(舎監の妻) …… デボラ・カー
ビル(舎監) …… リーフ・エリクソン
ハーブ(トムの父) …… エドワード・アンドリュース
アル(学生・トムのルームメイト) …… ダリル・ヒックマン
エリー(女給) …… ノーマ・クレイン
[物語]
大学のキャンパスで開かれた同窓会に出席したトム・リー(ジョン・カー)。
彼の顔を見て、あんな事件を起こしたのによく出席できるものだと噂する者もいる。
寄宿舎を訪ねて、かつての自分の部屋の窓際に腰掛けたトムは、自身の苦悩に満ちた学生時代を回想する……。
……寄宿舎の二階の窓辺でギターをつま弾きながら歌を歌うトムは、舎屋の庭で花壇の手入れをしている舎監の妻、ローラ(デボラ・カー)を意識している。5つの頃に母親を亡くした彼はローラを慕い、彼女もトムに目をかけている。今日も機を見てローラの庭仕事を手伝い、舎監の部屋で一緒にお茶を飲んで、パーティの余興で女役に選ばれた自分が着るドレスのフィッティングをしてもらう。
ある日ローラが、友人の主婦たちとビーチに遊びに出かけると、トムが待ちかまえている。
彼はビーチで裁縫をする主婦たちの仲間に入り、自分は裁縫も料理も得意だと言いながら、針と糸を手にする。
その姿を目撃したトムの同級生たちは驚愕し、さっそく彼にシスターボーイというあだ名を付ける。
少年たちにスポーツを指導していたローラの豪放な夫・ビルも、トムの女々しい行いに苦り切った様子だ。
ローラが寮に戻ると、トムの部屋のドアにはさっそく「シスターボーイ・リー」という落書きがされている。トムが慌てて落書きを消すと、室内に同級生たちが乱入し、集団で彼をからかう。ルームメイトのアルだけは、多勢に無勢のトムをかばっている。
息子のテニスの試合を応援するために学園を訪れたトムの父・ハーブは、息子の試合にエールを送る同級生たちの奇妙な反応に気づく。父親は更衣室で立ち聞きをした噂話から、息子がシスターボーイと呼ばれて、馬鹿にされていることを知る。
息子とともに訪れたカフェ "ザ・ジョイント" では、学生たちが、どうやら彼らの筆おろし役らしい女給兼娼婦のエリーをからかっているのだが、その様子にあからさまな嫌悪感を示したトムを見て、父親はさらに心配をつのらせる。
さっそく父親は、かつての同級生だった舎監のビルを訪ね、息子への適切な指導を依頼する。
トムを矯正しなければという彼らの話を聞いて、トムが余計に傷つくのではないかと心を痛めたローラは、逆に夫から、舎監の妻は学生に「お茶と同情」を与えていればいい、それが「食事と愛情」に発展してはならないと釘を刺される。
その頃、息子の部屋で女物のドレスを見つけたトムの父は激怒して、トムが楽しみにしていたパーティへの出席を禁止する。
ある夜、寄宿舎の庭では焚き火のもとで、男子学生たちの恒例行事、パジャマ・ファイト(パジャマ姿の新入生同士が取っ組み合いで、敵のパジャマを脱がせるといったゲーム)が開催される。
トムは闘争心を燃やしてゲームに臨むのだが、上級生たちは彼をシスターボーイだと馬鹿にして拘束し、闘わせようとしない。その様子を見かねたアルは、勝負に決着を付けてトムを楽にしようと、ゲームに乱入してトムのパジャマを剥ぎ取る。恥辱に身を震わせて寮に戻ったトムを、ローラはなぐさめようとするが、彼は耳をかさない。
トムのことが心配でならないローラは、アルを部屋に呼んで、トムに男らしい振る舞いを指導するように頼む。しぶしぶ男らしさの教官役を引き受けたアルは、音楽室でクラシック音楽に聴き入っていたトムに男らしい歩き方を教えようとしたりするのだが、結局トムは自分らしく振る舞うことで、毅然とした態度を示す。困ったアルは、今度の土曜の夜に、頼めば学生の相手をしてくれる女給のエリーを抱くことで、男であることを証明すればいいとトムに提案する。
自分の妻とトムが親しくすることを快く思わないビルは、トムがローラに送った詩集をを破り捨ててしまう。
ローラが涙をぬぐいながら階段を降りていると、廊下でトムが電話をかけている。立ち聞きの内容から通話の相手がエリーであることを知ったローラは、トムが娼婦を買うことに感づいてショックを受ける。
土曜の夜、ローラはひとりで "ザ・ジョイント" を訪ね、煙草を買うふりをして、エリーの様子を見る。
あばずれなエリーと言葉を交わしたローラが見せたのは、嫉妬の表情だった。
帰宅をしたローラは、スーツ姿で外出をしようとしているトムに声をかけ、むりやり部屋に招き入れて引き留める。執拗にコーヒーを勧め、最後には今夜は外出しないでと懇願するローラに、トムは突然抱きついて、口づけする。
しかし、自分の汚名を払拭したいという彼の決意は固く、おりしも男子学生たちとの山歩きから帰ってきたビルと入れ違いに、雨の中をコートも着ずに飛び出していく。
"ザ・ジョイント" の二階では、エリーが手慣れた様子でトムを迎え入れる。
徐々にムードを高めて相手を迎え入れようとするエリーのふるまいに対して、トムの反応はあまりにもちぐはぐだ。
やがていつもの「初めて」の学生とは違うと感じたエリーは、あなたがあのシスターボーイねと、高笑いする。その言葉を聞いたトムは絶叫してパニックを起こし、キッチンに駆け込んで包丁をつかみ、自殺を企てる。彼を落ち着かせようとするエリーを振り切って廊下に飛び出したトムは、騒ぎを聞いて廊下に出てきた男たちに取り押さえられる。
翌日ローラが庭にたたずんでいると、垣根の向こうでは、トムが醜態をさらして警察に連行されたいきさつを、学生たちが噂している。
そこに訪ねてきたのはトムの父親のハーブで、意外にも彼は得意げな様子だ。彼は息子が女性がらみの刃傷沙汰を起こしたことで、男らしさを示したと勘違いしているのだ。帰宅したビルが事情を説明すると、父親は意気消沈して、二階の自室で休んでいるはずの息子の顔も見ずに引き上げていく。その日はトムの18歳の誕生日だというのに。
夫と二人になったローラは、トムが命を失いかけたことに罪の意識を感じないのかとビルを責め、自分が好きなトムを助けてほしいと懇願する。日頃の妻に対する態度まで彼女になじられたビルは、怒りを抑えて家を飛び出して行く。
途方に暮れたローラが、トムの様子を見るために二階に上がってみると、部屋は空っぽだった。
両親とローラ宛に自分の行いを詫びようとして、書きかけのまま丸められた、遺書かとも思える手紙が、床に転がっている。
トムの自殺を恐れたローラは、勘を働かせて、彼が好んで歩いた森へ自動車を飛ばす。
歩道でトムの自転車を見つけたローラが、霧深い木立の奥へ足を踏み入れると、トムが木陰の下草に身を横たえている。彼が生きていることを知って安心し、話しかけたローラに、彼はローラが夫とグルになって自分を試そうとしたのだと拒絶反応を示す。いったんその場を立ち去りかけたローラは、ふたたびトムのもとに歩み寄り、彼に口づけを与える……。
……寄宿舎の窓辺で回想にふけっていたトムは、部屋に駆け込んできた学生の足音で、現実に引き戻される。
以前この部屋に住んでいた者だと自己紹介するトムに、学生はあなたの書いた小説を図書館で見たと気さくに答える。
トムは大学での経験とローラとのロマンスを小説に書き、名声を博していた。
トムが舎監の部屋を訪れると、そこにはすっかり老け込んだビルがいる。
ローラの行方を尋ねたトムをビルは睨みつけ、彼女は自分と別れてシカゴに行ってしまったと言い、彼にローラからの手紙を渡す。
風が木立をざわめかせる思い出の庭で、トムはローラの手紙を読む。
手紙の中でローラはトムの小説を褒め、結婚したトムがまっとうな人生を歩み、すばらしい小説を書くことを願いながらも、自分はまだトムを愛していると打ち明けるのだった。
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……と、映画が公然と示そうとしているあらすじを書いてみたものの、どうも釈然としない気持ちが残ります。
まず驚くのは、薄々と知ってはいたものの、男も女もマッチョ信仰のなかで生きている、ベトナム戦争以前のアメリカ社会の、信じがたいほどの偏狭な姿です。
そこでは男は、常に外見的な男らしさを積極的にアピールすることが求められ、その努力を怠る者がどれほど陰湿な手段で排除されようと、抗議の余地はありません。
けれども本作は、そういった困難な社会状況を図式的に描いて、メロドラマ作りの「カセ」につかうといった、単純な作品では、どうやらないようです。
作品中でシスターボーイだといじめられる主人公のトムは、裁縫をしたり、ドレスを着るのを気にしなかったり、音楽や詩を好んだりという「男らしくない」振る舞いを見せる以外は、奇妙なことに、雄々しく毅然とした態度で、我が身に降りかかる問題にぶつかっていきます。
かたやビルが率いるスポーツ好きの学生たちは、ビル自身も含めて全員が筋肉質のクルーカット(こちらのサイト
にも書かれていますが、米国でのそれは、ほとんど丸刈りに近いようです)で、現代日本の風俗から類推すれば、まるで「薔薇族」の表紙モデルのような、ガチムキのホモ集団に見えてなりません。
しかもビルや学生たち(とくにトムのルームメイトのアル)、そしてトムの父親でさえも、瞬間的にホモセクシュアルな雰囲気を漂わせているのです。
いったいどんな配慮によって、そのような一貫性を欠いた表現が選ばれたのか?
そしてこの映画は、公開当時どう受容されていたのか?
そんな疑問に、ある文章が答えてくれます。
「スクリーン」昭和三十二年五月号に掲載された、三島由紀夫の「『お茶と同情』の映画化」という文章です (ワイズ出版刊「三島由紀夫映画論集成」に収録)。
三島は福田恆在のニューヨーク観劇記を通じて戯曲「お茶と同情」の存在に注目し、白水社から翻訳が上梓されると、すぐに目を通したようです。彼はこの芝居の巧味を、「ビルの破局とトムの救済」が、前者は隠され、後者は明らかにされながら、パラレルに進展することにあると述べています。
そう、原作戯曲ではトムは明らかに同性愛者であり、ビルは隠れゲイとして描かれていたのです。
三島によると映画版では、正面切った描写を避けるために、原作戯曲にいくつかの改編が加えられているのだそうです。
たとえば映画では、物語全体をトムの回想という枠物語にして、最後にローラの手紙を付け加えることで、トムとローラが同性愛、少年愛という「不純な」愛のかたちから、立派に「更正」したとのだいう印象を強調しています。またトムはゲイではなく、女々しい趣味をもってそれを隠そうとしなかったため、不幸にもゲイと間違えられたナイーブな少年だと受け取られやすいように描かれています。
またトムが女を買うシーンは穏当になり、ビルがじつはゲイであることが暗示されるセリフもカットされています。
さらにはローラがトムに自分の胸を触らせる戯曲中のスキャンダラスなラストシーンは、森の中での接吻というありふれた愛情表現に置き換えられているのだそうです。
そして三島はローラが、「特にそういう種類の男に惹かれる」(つまりホモしか愛せない性癖を持つ)女であり、ビルとトムのような男にとって、彼女のような女は唯一の救済だったと喝破しています。
もっともこの作家自身の性癖を考慮すれば、いくぶんの穿ちすぎを用心すべきなのでしょうが、三島の解釈を受け入れることで、本作には次のような第二の物語が浮かび上がるでしょう。
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同性愛者のトム・リーは、保守的な環境で育ったゆえに、自分自身の性的嗜好をうまく理解できない。
寄宿舎の舎監の妻・ローラを慕うのは、5つの頃に母親を亡くしたことの代償行為かもしれず、ローラもまたトムに特別に目をかけている。
ギターをつま弾いたり、詩集を読んだり、ドレスを着たがったり、裁縫をしたりといった、自分があたりまえに受け入れられる行為が、シスターボーイというあざけりの対象となり、父親を激怒させることに、彼は衝撃を受ける。
そんな彼の姿を見たローラの豪放な夫・ビルも、公的な立場とは別の意味で困惑している様子だ。
クラスメイトのからかいからトムをかばうルームメイトのアルは、トムを愛しているようなのだが、彼もまたホモセクシュアルな愛情を表現するすべを知らずに戸惑い、トムに男としての面目を立てさせることで、愛情を示そうと努力する。
トムの父親にしても、同性愛的な感情は学生時代に身に覚えのある感覚だったのかもしれない。しかしそれを無防備に表現すれば社会から抹殺されることを、今の彼は知っている。息子が身の破滅を回避するためには、どんな形でもいい、周囲が「男らしい」と認める行為を息子に、通過儀礼として経験させなければと考えている。
いっぽうでトムの女性的な優しさに惹かれたビルの妻のローラは、「お茶と同情」の交際を心がけながらも、否応なくトムに惹かれていく自分を感じている。
自分が女を抱けば、社会から認められるのだと思い詰めたトムは、アルの提案を受け入れて、女給のエリーと寝ることを試みる。
その計画を知ったローラは、心の中に湧き起こる激しい嫉妬から、自分が同性愛者としてのトムを愛しているのだと自覚する。
彼女はエリーのもとに行こうとするトムに追いすがるのだが、彼の決意を変えることはできない。
エリーの部屋を訪れたトムは、自分が女を抱けず、その女が自分をシスターボーイだとあざ笑うのを聞き、娼婦を買うことが結局は、自分が同性愛者であることを証明することでしかなかったと思い知らされる。
この社会において、まっとうな人生を歩む最後の望みを絶たれたトムは、その場で自殺を企て、警察に引き渡される。
事件の真相を知ったトムの父親も、もはや息子はなすすべを断たれたのだと落胆する。
その様子を見たローラが非難を夫に向けたのは、結婚をしたとたんに学生たちばかりにかまって自分を愛さなくなったビルこそが真正のゲイであり、それにもかかわらず、自分の保身のために、夫が自分と同じ問題を抱えたトムを見捨てたからだった。
トムの自殺を恐れたローラは、トムが好んで歩いた森へ自動車を飛ばし、森の奥でトムを発見する。
彼女はトムに口づけを与え、愛と信頼を示すことで、彼を勇気づける。
生き続ける力を得たトムは、学園での経験を小説にして名声を博すことで、自分なりの生き方を見いだしたのだった。
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このような、隠されたセクシャリズムを強調した解釈は、表面的な物語につきまとう婉曲のモヤモヤを、かなりすっきりと吹き払ってくれます。
しかしそのいっぽうで映画版は、メロドラマとしての大きな問題を孕むことになります。
なぜならゲイであることを自覚したはずのトムにとって、ローラが示す異性の愛は、なんの救済にもならないはずだからです。
また三島由紀夫は、トムがゲイであるという問題から観客の視線を引き離そうとする、すべての映像的工夫を「甘くて見ていられない」と否定しており、「ラストの手紙の長さを緩和するために、途中にその花の大写しが出るところなども甘い」と非難しています。
しかしじつは、三島が「甘い」と感じたその部分こそが、映画としてはまさに監督のミネリらしい部分、撮影監督のジョン・アルトンが実力を発揮したなのです。
ローラからの手紙を戸外で読むトムの周囲をゆるやかに移動していたカメラは、次に手紙から目を上げたトムの視線の先にある、薄暗い室内で仕事の電話を受けるビルの背中を捉えます。そしてそのまま、風にざわめく深い緑のなかを180度以上パンして、ふたたび手紙を読みふけるトムを捉えます。
そこで目に涙を溜めて手紙が読めなくなったトムが視線を上げると、その主観を反映した、ピントのぼやけた花が画面に映り、カメラはピントをぼやかしたままでパンをして、ぼやけた手紙の文面にたどり着き、ふたたびピントを結ぶのです。
さらにカメラは緑のなかをさまよい、先ほどまでトムが物思いにふけっていた、カーテンが風にはためく二階の窓にたどり着きます。意識を浮遊させながら、ローラの追憶にひたるトムの意識の流れが映像の語りによって示される、夢幻的なラストシーンです。
それまで本作の描写は、舞台をできるだけ忠実に再現するという会社側の要求と、デリケートな素材に細心の注意を払うという配慮からか、ごく正統的なカット割りを重ねてきました。
会話の際の切り返しカットを、非常に細かく割っているのが、いつものミネリらしからぬ本作の特徴ですが、これはたんなる舞台を撮影したものと映画を区別するための、ミネリの抵抗だったのかもしれません。
しかしラストにいたって、突如本作の映像は、まるでヌーベルヴァーグの作品(『恋のエチュード』で多用された森林の移動撮影を思い出しました)であるかのような、しかも主観表現としては群を抜いてアクロバティックな、斬新な表現を見せるのです。
この効果は今見てこそ、衝撃的なのかもしれません。
そしてもう一つ、三島由紀夫は決定的なミスリーディングをしています。
ローラが森の中でトムに接吻するシーンです。
英語のサイトを検索すると、本作のそのシーンに触れた描き手のほとんどすべては、このキスシーンを、ローラがトムに肉体を捧げた表現だと、自然に受け止めているのです。
倫理規制の直接的な対象である米国の観客が、規制された結果としての表現を、実際はどう解釈するのか、同時代の日本では(三島のような人でさえ)想像が及ばなかったのでしょう。
映画版はその規制の厳しさを逆手にとることで、じつは舞台版以上に過激な性的ニュアンスを暗示することに成功しているのです。
三島から時代的に隠されていた部分、そして彼が意識的に目を背けたのだろう部分(つまりおそらくは、社会秩序に対するリベラルな姿勢)を推察することで、第三の物語、真に悲劇的なメロドラマが浮上します。
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先天的なリベラリストとして芸術を愛し、自分を偽ることができないトム・リーは、マッチョ思想に席巻された社会のなかにあって、自分自身の役割を見つけられずにいる。
彼の美的な感性は、ときに彼の性的役割を混乱させ、彼に道徳を超えた相手を恋愛対象に選ばせてしまう。
しかしそうした彼の自然な振る舞いは、男性原理的社会にとって恐怖の対象でしかない。
とくに潜在的、あるいは顕在的な同性愛者であり、しかも自分の性癖をひた隠しにしなければならない人々にとって、トムは抹殺されるべき存在であり、さっそく彼をスケープ・ゴートに仕立て上げる。
はじめて社会秩序というものの強大な力を体感したトムは、恐れおののき、彼らが示す唯一の和解条件(娼婦を買うこと)を受け入れることで防御を試みるのだが、彼の潔癖な本質は、いっさいの肉体と精神の犠牲を拒否してしまう。
恐慌をきたした彼は、自殺を企てるに至る。
そんな彼を救ったのは、マッチョな価値観に生理的な嫌悪感を持ち、同性愛者を愛することしかできなくなったローラだった。彼女は彼を救う最後の手段として、彼に自分の肉体を捧げる。しかしその行為は、社会から同性愛者であることに追いやられつつあるトムを救済すると同時に、彼を自分の愛の対象とはならない異性愛者に位置づけてしまうという、悲劇的な矛盾を含むものだった。
ローラによって抑圧から解放されたトムは、自分の特異な経験と美意識を物語として客体化する小説家として生きることで、自分の存在価値を見いだすことになる。
年月を経ていまだに愛し合うトムとローラが本当に愛しているのは、記憶のなかにしか存在しない相手である。ローラを思うトムの心は、ふたりの思い出の庭の緑をさまようばかりだった。
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じつはミネリは、1946年公開の『底流』"Undercurrent" でも、音楽と詩に身を捧げることで社会的にはさげずまれながらも、最後には芸術の力でヒロインを救う人物を(サスペンス映画としてのおもしろさを犠牲にしてまでもむりやりに)登場させています。ロバート・ミッチャムが演じた、マイケルという男です。
10年後に作られた本作のトムは、マイケルの精神的な後継者であり、そのリベラルな姿勢をバイセクシュアルであることさえも許容しかねないまでに拡張させた存在なのでしょう。
このような、社会から抑圧されがちなマイノリティに、当時の倫理規制下で許される限界としての「お茶と同情」の視線を注ぎつつ、繊細な彼らが暴力から身をそらし、芸術表現によって周囲に影響を与える道を示すことこそ、本作におけるミネリの真の目的だったのではないか、と思えてなりません。
(11 August, 2006 ©taraga)