★★★★
不思議な超能力ミュージカル
国内盤のDVDが廉価価格になっているので、現在は容易に入手可能なミネリ最後期の作品です。
もとになった戯曲は、アラン・ジェイ・ラーナーが1965年に舞台劇のために書いたものであり、原作者自らが映画向きに書き直しました。
ラーナーはミネリが『巴里のアメリカ人』(1951)、『ブリガドーン』(1954)、『恋の手ほどき』(1958)と、再三コンビを組んできた脚本家であり、撮影前に脚本家と討論しながら書き直しを重ねるミネリの製作スタイルにも、よく応えられる書き手だったのでしょう。
ミネリによると、ラーナーは子供の頃から超自然的なものに興味を持っていたらしく(ヘンリー・シーハンによるインタビューより)、その点でもファンタジックな趣向を好むミネリと気が合ったのかもしれません。
このミュージカル衰退期に作られた、奇妙な味の作品を偏愛するのはおかしなことなのかもしれませんが、ぼくは本作がとても好きです。
以下***線内は、ネタバレのあらすじ。
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大学で教鞭を執る精神医学者のマルク・シャボウ(イヴ・モンタン)は、講義に紛れ込んだ学外の若い女性、デイジー・ギャンブル(バーブラ・ストライサンド)から相談を受ける。彼女はフィアンセのウォーレン(ラリー・ブライデン)の採用を検討する人事部長夫妻と食事をする夜のために、強度のニコチン中毒による1日5箱のチェーンスモーキングを治したいのだという。
面談中にデイジーは、マルクが探しているメモの場所を指摘したり、電話が鳴るのを予知したりと、不思議な能力を見せる。
同僚のコンラッド博士(サイモン・オークランド)からESPの症例ではないかと吹き込まれたマルクは、超自然現象の存在を疑いながらも、デイジーへの催眠術による深層心理分析を試みる。
あっさりと催眠術にかかったデイジーは意識を1818年に遡らせ、メリンダ・テントリースというイギリスの公爵夫人として語りはじめ、シャボウを困惑させる。
自宅に戻ったデイジーは、ひさしぶりに彼女を訪ねてきた、血のつながらない義理の兄のタッド(ジャック・ニコルソン)にウォーレンを紹介する。彼女の人とは違う能力を知らず、エリート意識をむきだしにして振る舞うフィアンセを前に、デイジーは無理をして自分を装っている様子だ。
一方で自由な生き方を目指すタッドは、デイジーの能力を理解した上で、彼女の様子を離れて見守っている。
依然として半信半疑ながらも、好奇心を捨てきれないマルクは、禁煙治療にかこつけてふたたびデイジーに催眠術をかけ、メリンダのペルソナ(人格)を呼び出す。男たちの財産を食い荒らす悪女として生きた生涯を劇的に語るメリンダのペルソナに惹かれていく自分を、いまやマルクは抑えきれないでいる。
一方、メリンダの存在に気づいていない平常時のデイジーは、マルクから食事に誘われて、まんざらでもない様子だ。
その夜彼女はベッドのなかで別の人格と対話しながら、マルクへの恋心を自覚する。
シャボウの報告を聞いたコンラッド博士は、メリンダのペルソナが語った歴史的事実の検証と、テレパシーによる催眠術の実験を提案する。ちょうど訪ねてきたデイジーにシャボウがテレパシーを送ると、なんと彼女はあっさりと催眠状態に落ちてしまう。
メリンダのペルソナが語る若い愛人との恋愛に、マルクは嫉妬心を憶えながらも、デイジーの信じがたい症例を真面目に検討する問題として学生たちに語る。
彼の非科学的な講義は学生運動のやり玉に挙がり、シャボウは教授会で自説のの撤回か辞職かを迫られる。
デイジーはニュースを聞いて心配し、シャボウの自宅を訪ねてきた。
メリンダに会いたくてたまらなくなったシャボウは、テレパシーでデイジーに催眠術をかけ、テープレコーダーを回しながらメリンダと会話する。明日、反逆罪のかどで裁判にかけられるのだというメリンダにシャボウは別れを告げて、彼女への思いを独白する。
辞職を申し出るつもりで訪れた大学の事務局で、彼は学長のメイソン(ボブ・ニューハート)から意外な話を聞く。大学のパトロンである大富豪の老人が、シャボウのリインカーネーション(転生)の研究に興味をもち、生まれ変わりを研究する学部新設の支援を申し出たのだという。
シャボウの首がつながったその頃、研究室では訪ねてきたデイジーが彼の帰りを待ちながら、ラジオを聞くつもりで誤って、メリンダとシャボウの会話が録音されたテープを再生していた。
彼女にショックを与えたのは、自分が世間を騒がせている多重人格者だったという事実ではなく、シャボウが愛していたのは彼女自身ではなく、自分の前世の人格であるメリンダだったという事実だった。デイジーは激怒して、その場を立ち去る。
今やシャボウにとって、デイジーは研究の続行のために必要な存在だ。
ところがデイジーは、シャボウに裏切られたと感じ、自宅を訪ねてきた彼を追い返す。シャボウがテレパシー催眠術を試みてもすぐに気づいて、歌や踊りで眠気を覚まして抵抗する。
彼女はフィアンセのウォーレンさえ疎ましくなり、世間で話題の "メリンダ" は実は自分のことだと告白し、彼を落胆させる。そこに居合わせたタッドは、自分がデイジーと結婚するつもりだとウォーレンに告げる。
デイジーに近づけないシャボウは、高層ビルの屋上に立って、デイジーに戻ってほしいというテレパシーを送り続ける。どこにいても四六時中シャボウのテレパシーを感じてしまうデイジーはついに腰を折って、ついにシャボウの研究室を訪ねる。
シャボウは熱っぽく彼女の能力のすばらしさと、彼女の存在の奇跡的な価値を語り、最後にもう一度だけ催眠術の被験者になることを彼女に承知させる。
催眠状態になったデイジーは、メリンダ以外にも14回の人生の「記憶」を持つのだと話す。シャボウがそれらの人生のなかでの自分とデイジーの関係を問うと、彼女は自分たちがいずれ転生して出会い、2038年に結婚するというヴィジョンを語る。
シャボウは質問をやめる。
催眠から醒めたデイジーは、禁煙に成功したことをシャボウに感謝し、フィアンセと別れてタッドとつきあうつもりだと告げる。
シャボウは別居中の妻と離婚するつもりであり、昔は答が好きだったが、今は質問が好きだ、答は知的だが、質問は人間的だ、自分が変わったのは君のおかげだと打ち明ける。
またいつか、と研究室を去るデイジー。ふたりはそれぞれの人生の新しい局面を前にしている。
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衰退期のミュージカルが新奇な趣向を競い合ったことを知っていたとしても、本作はたぶん誰も内容を予測できないであろう、とても不思議なミュージカルです。
いや、ミュージカルとも、メロドラマとも、コメディとも分類ができないのかもしれません。
ヒロインが語る輪廻転生の物語は、戯曲が書かれた当時、ベストセラーになった「ブライアン・マーフィーを捜して」"The Search
for Bridey Murphy" にインスパイアされている *1そうですが、まるで過去の作品で精神分析理論にこだわり続けたミネリが、創作の新しい可能性を模索する姿の比喩のようにも思えてしまいます
(「生まれ変わりを証明できたら、フロイド一派を一撃だ」なんていう、登場人物の皮肉なセリフも含まれているほどです)。
舞台版(ぼくは内容を知りません)からの変更の要所は、ヘンリー・シーハンのインタビューによると、デイジーのペルソナが19世紀英国の公爵夫人のペルソナのほぼ一つに絞り込まれた点と、デイジーが自分の身辺に起こっていることを、クライマックス近くまで気づかないようにした点だということで、それによって教授とディジーとデイジーの別人格であるメリンダとの、奇妙な「三角関係」に的を絞ったラブストーリーが強調されているようです。
自分を必要以上に惨めな存在だと考え、個性を殺してエリート学生のフィアンセに従おうとする女子大生と、無意識な保身から、自分を常識の世界に閉じこめようとする大学教授が、未知の可能性を信じることへと一歩踏み出すことによって新しい自我を獲得するという物語は、ミネリが繰り返し描いてきた自己解放の物語をなぞっています。
しかしそれが表面的なラブストーリーと今ひとつ噛みあわないことが、本作の問題点です。
容易にハッピーエンドにできる作品を、問題を残しながら締めくくらざるを得なかったことには、ニューシネマの時代にウェルメイドな作品作りを目指すことの苦渋を感じさせます。
まるでミュージカルの体裁を取っていないのに、バーブラ・ストライサンドとイヴ・モンタンだけが(常に自然なミュージカルシーンを演出するミネリ作品としてはかなり唐突な印象で)歌を歌い出すという設定も奇妙です。
このふたり(とくにバーブラ)が超絶的な名歌手であり、その歌を聴けば、彼らなら歌って当然だと思えてしまうことで、不自然な印象はかなり薄れているのですが。
ミネリはこの時期、ミュージカルに関しても新しい展開を目指していたようで、その決意は前出のインタビュー中の、次のような発言からも伺えます。
ミネリ:私はミュージカルが重要な主題を扱うようになるべきだと考えている。『キャバレー』は [訳注:ジョエル・グレイが演じた]
MCをヒットラーになぞらえたという点で重要だった。『ウエスト・サイド物語』は、ダンスに新しいスタイルがあり、ニューヨークのギャングを描いたという点で重要だった。私はそれが、ミュージカルの来たるべき姿だと考える。バックステージものなんて類のものは、もうお呼びじゃないんだ。
映画史的には、上記の二作はミュージカルというジャンルにとどめを刺した作品であり、ボブ・フォシーは晩年の『オール・ザット・ジャズ』(1979)でバックステージものに立ち返らざるを得なかったわけで、ミネリを含めた誰もが、ミュージカルの行方を見失っていたわけです。
しかし袋小路に入ったミュージカルが試みた数々の奇策のなかでも、本作のそれはきわだって奇妙です。
バーブラが別人格の自分とデュエットしたり、モンタンがビルの屋上からESPで愛の歌を送信したりという場面は、見ていて頭がクラクラしてくる、エキセントリックな魅力に満ちています。
これが並の監督の映画だと、悶絶ものの珍場面になるのだろうけれど、驚くべきことにそれらが少しも浮き立たつことなくストーリーに納まっているんですね。
メリンダの回想として描写される19世紀初頭のロンドンの貴族社会の場面は、歴史物を扱う際のミネリが見せる、細部へのこだわりを徹底させ、ヴィスコンティに迫るかのような豪奢と重厚さで、目を楽しませてくれます。
さらにはタイトルバックからして、鉢植えの花々の開花を早回しで捉えた映像と、それに続いて色とりどりの花々が咲き誇る大学の花壇でバーブラが歌い踊る場面の、画面いっぱいに広がる奔放な色彩美には、目を見張るばかりです。それまでのカラー作品でミネリは、各フレームに印象派の絵画のような配慮で色彩を配してきましたが、本作の(回想場面を除く)シーンを支配しているのは、ちょっとサイケな小花模様の美学であり、それがデイジーの存在そのものを表しています。
穿った見方をすれば、意識的にせよ無意識的にせよミネリは、これまでの単色で表現されるヒロインとは違う、たとえば当時の若い世代全体を象徴する存在としてデイジーを描こうとしたのかもしれません
(まだ20代の、はつらつとしたバーブラ・ストライサンドは、この役柄にぴったりです)。
そしてラストでヒロインが迎えた新しい旅立ちは、彼女こそアメリカ最大の歌手の一人だと容易に納得できる、バーブラの驚異的な主題歌の歌唱で示されます。
行く先も目的もわからないけれど、自分の個性を信じて明るく生きていこうというヒロインの決意は、この時代に果敢な挑戦を試みた老巨匠の活力に重なり、この時代の映画を観るたびに行き場のない不安を感じる我々に、つかみどころはないが心地よい感動を残してくれます
*2。
本作が、ミネリが自作だと進んで認める最後の作品(後日アップする予定の『ザ・スター』の記事を参照)であることを考えればなおさら、釈然としない部分までもが愛おしく感じられる、不思議な魅力を湛えた映画です。
*1 ブライディ・マーフィー事件については、こちらのサイトの記事を参照。
また1956年には 映画 "The
Search for Bridey Murphy" (監督: ノエル・ラングレー)も公開されているようです。
*2 タイトルバックとエンドクレジットの背景になる、無数の長方形が吸い込まれていくアニメーションは、『ジーグフェルド・フォーリーズ』の
"The Great Lady Has An Interview" 、『ラヴリー・トゥ・ルックアット』のファッションショー、『バンド・ワゴン』の
"Girl Hunt Ballet" と、ミネリが繰り返し使った、アーチ状の舞台装置を思い出させます。
(19 September, 2006 ©taraga)