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ヴィンセント・ミネリ>各作品の感想>ボヴァリー夫人

ボヴァリー夫人
Madame Bovary

監督: ヴィンセント・ミネリ Vincente Minnelli

1949年

製作: Pandro S. Berman
原作: Gustave Flaubert
脚本: Robert Ardrey
撮影: Robert H. Planck
音楽: Miklos Rozsa
楽曲: Gaetano Donizetti
美術: Cedric Gibbons, Jack Martin Smith
出演: Jennifer Jones, James Mason, Van Heflin, Louis Jourdan, Alf Kjellin, Gene Lockhart, Frank Allenby, Gladys Cooper, John Abbott, Harry Morgan, George Zucco, Ellen Corby, Eduard Franz, Henri Letondal, Esther Somers, Frederic Tozere, Paul Cavanagh, Larry Simms, Dawn Kinney, Vernon Steele


★★★★★鏡の国のエマ・ボヴァリー

DVD『バンド・ワゴン』の映像特典の一つ、ドキュメンタリー「ビンセント・ミネリ:映画を作った男」に収録されたこの映画の華麗かつ異様な舞踏会のシーンが、ぼくを夢中にさせてしまった映画です。
物語は、いくつかの変更点を除いてほぼ原作小説どおりなので、シノプシスは省略します。

原作の小説がどんな作品であったか、なんてことから書きはじめる余裕も力もないので、手っ取り早く集英社の「世界の文学7」に収録された翻訳者・菅野昭正の解説から引き写してみると、刊行当時から称揚されていた小説「ボヴァリー夫人」の美質は、「芸術的な『深い構成』と科学的な観察精神の結びつき」(サント=ブーヴ)であり、さらには「夢想と叙情への没入」への「退行」に抗って「凡庸の叙事詩を紡ぎだす」ことで、「近代小説の歴史の上で、もっとも重要な転換点を画する傑作」となるに至った、と評価されているのだそうです。

ミネリによる「ボヴァリー夫人」へのアプローチは、まさにこういった文学史的評価の流れに逆行して、「夢想と叙情への没入」を躊躇なく受け入れたものだといえます。映画は原作で描かれた出来事をほぼ忠実に採り上げながらも、ハリウッドの典型的なメロドラマとして完結することを目指しているのです。
ヘンリー・シーハンのインタビューによると、ミネリはエマ・ボヴァリーの性格について、「断定的な支配下にあっては雄弁にあれこれと意見を言い、そして正しい方向に向きを変えようとして、権威を否定的に叩きつぶす」ヴァン・ゴッホに似ていると述べています。
ヒロインの生き方を肯定的にとらえるミネリの姿勢は、原作小説から「エンマの内心の深淵の奥底」にまで「作者の血管から注ぎ込まれた『男性的な資質』」を感じ取ったのだという、詩人のボードレールに近いものだったのかもしれません。

さてこの映画は、良俗紊乱(びんらん)のかどで裁判にかけられたギュスターヴ・フローベール(ジェイムズ・メイスン)が、自作を弁護するために、自分が創造したエンマ・ボヴァリー(ジェニファー・ジョーンズ、映画での役名は英語読みでエマ)がどんな女性だったかを改めて語るという、枠物語の形式を取っています。
弁明の機会を与えられたフローベールは、ヒロインの恋の夢想は自分が批判的に描いたものであることを説明し、愚かな女性の人生に対する裁判官や傍聴人たちの同情を促すことで、物語が示す倫理的教訓を強調するわけです。

人妻の不倫を描いた映画を公開するにあたって、ハリウッドではまだ、こういった配慮が必要な時代だったのでしょう。
しかもボヴァリー夫人の夫・シャルル(ヴァン・ヘフリン、映画での役名は英語読みでチャールズ)を、(彼によって「凡庸」の典型を示そうとした原作の意図とは対照的に)寛大で思慮深い好人物として描くことで、夫人が自殺したあとで彼が一人娘と暮らすことになる結末を見ても、観客に甘い希望を残そうとする歪曲がなされています。

そういった典型的なハリウッド流のメロドラマ化がなされた結果、作品の魅力が損なわれてしまったのかというと、これがまったくそうは思えないんですね。
原作者のナレーションはむしろ、ありふれたストーリーに悲劇的な予感と、性急なテンポ感を与える要素として、積極的に機能しています。
さらにはエマの夢想をロマンチックに拡大することで、抑圧と夢想、そして解放というミネリらしい展開が、細部においてめまぐるしく反復することになります。その結果、現実のなかに溢れだす甘美な夢と、夢をかき消す冷酷な現実描写が、強烈なコントラストをもって、短い上映時間のなかに圧縮されるのです。

ミネリ流のファンタスティックな演出が最も顕著に示されるのは、原作ではかなりあっさりと描写されているにもかかわらず、映画では9分近くを費やしてたっぷりと描かれる、舞踏会のシーンでしょう。
テンポの速い舞曲に乗って踊る、盛装した男女の群れのなかで、愉悦にみちたエマの姿をさまざまな角度から追いかける流麗な映像は、まさに映画を観る愉びにあふれたものです。
そしてエマがのちの浮気相手であるロドルフを見いだしてからは、エマの主観に寄り添ったカメラは、くるくると回るふたりの姿を執拗に追いかけ、徐々に彼らに接近します。めくるめく映像のもたらすめまいが、見る者にヒロインの昂揚を追体験させます。

このロマンチックに肥大した舞踏シーンは、ふたりの頭上で旋回するシャンデリアを捉えると、そのままなめらかにエマの妄想へと移行します。踊り疲れて息苦しさを訴えたエマの言葉にしたがって、給仕たちが窓を開けるのももどかしいといわんばかりに、椅子を振り上げて次々と窓を破壊する破格の幻想シーンが出現するのです。
ミクロス・ローザが作曲した、華麗だけれどもどこかいびつに狂ったワルツのビートに合わせて、ヒロインはさらに激しく旋回し、打ち砕かれた窓のガラスの破片が、きらめきながら飛び散ります。
窓の割れる音や、ボトルやグラスが床に落ちてくだける音が、ワルツにシンバルのような華やぎを添えるさまは、まるでラヴェルの「ボレロ」の強烈なクライマックスをなぞっているかのようです。

ミネリが生涯貫いた「主観描写」の姿勢は、「主観」が感じているはずであろうものは、それが現実であろうと幻想であろうと区別をしないという過激なものであり、現実と地続きに幻想を描写するその手法は、シュールレアリズムの信奉者であることを自ら認めたミネリの思わくを超えて、のちにマジックリアリズムの小説家たちが開拓した前衛的な手法と同質なものではないか、と感じてしまいます。
しかしミネリはそのキャリアの最後まで、現実を拡張する彼独自の方法を方法論化することなく、作品ごとのストーリーに沿って、ごく感覚的・個人的な演出を行いました。そのことが彼の本質をつかみどころのないものとし、ミュージカル演出の手腕や豪華なカラー撮影など、衆目を惹く要素以外のものを見えにくくしているのだとしたら、とても残念なことです。

さらにこの舞踏会のシーンは、これ以後のミネリ作品でほぼ一貫して登場する、主人公の内面の欲望を映し出す装置としての鏡が、明らかにその役割を示した、という意味でも非常に重要です。
初めて舞踏会でダンスを踊ったヒロインがソファに腰を下ろすと、彼女の美貌に吸いよせられた男たちがその周囲を取り囲みます。これまでの夢想が叶って、ついに舞踏会の華になった、幸福の絶頂にある自分自身の姿を、エマは壁に掛けられた鏡の中に見いだして、陶然とするのです。

ミネリ:そう。彼女は鏡を見上げて、男たちや将校たちからダンスを申し込まれている自分自身を見いだす。それは彼女が夢だとわかっている夢だ。私は全編にわたって鏡を使った。彼女がルーアンで彼女が借りたひどい建物のひび割れた鏡。ラストシーンで彼女が着飾るために覗き見る鏡。修道院の中の鏡。あの作品でどれだけの鏡が使われたか、誰もわからないさ。
ヘンリー・シーハンによるインタビューより)

ミネリの言葉通り、本作のあらゆる機会でエマが自分自身の欲望を映し出す鏡は、作品のなかで互いに乱反射をしているかのようで、「芸術的な『深い構成』」を持つはずの物語は混乱します。
ヒロインを超越した視点を持たず、つねに彼女の主観と密着した「語り」は、しばしば彼女のヒステリックなわがままに振りまわされるものの、全体をフローベールの語りのなかに封じた枠物語の形式が、かろうじて本作を分裂から救うことになります。
エマの悲劇的な末路を暗示するのは原作の構成力ではなく、ルーアンの安ホテルにかけられた割れた鏡のなかに映る、彼女自身のひび割れた姿なのです。

タイトルロールを演じるジェニファー・ジョーンズは、圧倒的な美貌やグラマラスな肢体をアピールするのではなく、ごく普通の女性からにじみ出す、人をハッとさせるような美しさを表現できる女優だと思います (といっても、その輝きを自在にコントロールして随所で見せつけるさまはさすがに大女優で、「ごく普通」とはまるでかけ離れたものなのですが)。

ストーリーの流れのなかで刻々と変化する彼女の表情は見るからにはかなげで、女性の可愛らしさと成熟、強さと弱さ、優しさと残酷さといった両極を絶えず往復しているかのようです。その急激な変化からは、ときおり神経症的でグロテスクな印象さえ受けてしまうほどです。エマの夢想に焦点を当てたミネリの構想に彼女はまさに適役で、ハリウッド映画において「エマ・ボヴァリーは私だ」という言葉は、この女優のためにあるのではないか、と思ってしまいます 。
気弱で人のよいエマの夫を演じるヴァン・ヘフリンや、エマを誘惑するルイ・ジュールダン、年下の恋人アルフ・チェリン、冷酷な高利貸しのフランク・アレンビイなどの共演者たちも、セットで表現されたクラシックなヨーロッパの雰囲気に、みごとにとけ込んでいます。

原作ものの映画としては、多くの欠点が挙げられるのだろうこの映画は、しかしミネリ流のメロドラマとファンタスティックな要素がみごとに融合した傑作として、個人的にミネリの最高傑作の一つに数えたい作品です。

(17 August, 2006 ©taraga)


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