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| ヴィンセント・ミネリ |
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| ボヴァリー夫人 監督: ヴィンセント・ミネリ Vincente Minnelli 1949年 製作:
Pandro S. Berman ★★★★★ DVD『バンド・ワゴン』の映像特典の一つ、ドキュメンタリー「ビンセント・ミネリ:映画を作った男」に収録されたこの映画の華麗かつ異様な舞踏会のシーンが、ぼくを夢中にさせてしまった映画です。 原作の小説がどんな作品であったか、なんてことから書きはじめる余裕も力もないので、手っ取り早く集英社の「世界の文学7」に収録された翻訳者・菅野昭正の解説から引き写してみると、刊行当時から称揚されていた小説「ボヴァリー夫人」の美質は、「芸術的な『深い構成』と科学的な観察精神の結びつき」(サント=ブーヴ)であり、さらには「夢想と叙情への没入」への「退行」に抗って「凡庸の叙事詩を紡ぎだす」ことで、「近代小説の歴史の上で、もっとも重要な転換点を画する傑作」となるに至った、と評価されているのだそうです。 ミネリによる「ボヴァリー夫人」へのアプローチは、まさにこういった文学史的評価の流れに逆行して、「夢想と叙情への没入」を躊躇なく受け入れたものだといえます。映画は原作で描かれた出来事をほぼ忠実に採り上げながらも、ハリウッドの典型的なメロドラマとして完結することを目指しているのです。 さてこの映画は、良俗紊乱(びんらん)のかどで裁判にかけられたギュスターヴ・フローベール(ジェイムズ・メイスン)が、自作を弁護するために、自分が創造したエンマ・ボヴァリー(ジェニファー・ジョーンズ、映画での役名は英語読みでエマ)がどんな女性だったかを改めて語るという、枠物語の形式を取っています。 人妻の不倫を描いた映画を公開するにあたって、ハリウッドではまだ、こういった配慮が必要な時代だったのでしょう。 そういった典型的なハリウッド流のメロドラマ化がなされた結果、作品の魅力が損なわれてしまったのかというと、これがまったくそうは思えないんですね。 ミネリ流のファンタスティックな演出が最も顕著に示されるのは、原作ではかなりあっさりと描写されているにもかかわらず、映画では9分近くを費やしてたっぷりと描かれる、舞踏会のシーンでしょう。 このロマンチックに肥大した舞踏シーンは、ふたりの頭上で旋回するシャンデリアを捉えると、そのままなめらかにエマの妄想へと移行します。踊り疲れて息苦しさを訴えたエマの言葉にしたがって、給仕たちが窓を開けるのももどかしいといわんばかりに、椅子を振り上げて次々と窓を破壊する破格の幻想シーンが出現するのです。 ミネリが生涯貫いた「主観描写」の姿勢は、「主観」が感じているはずであろうものは、それが現実であろうと幻想であろうと区別をしないという過激なものであり、現実と地続きに幻想を描写するその手法は、シュールレアリズムの信奉者であることを自ら認めたミネリの思わくを超えて、のちにマジックリアリズムの小説家たちが開拓した前衛的な手法と同質なものではないか、と感じてしまいます。 さらにこの舞踏会のシーンは、これ以後のミネリ作品でほぼ一貫して登場する、主人公の内面の欲望を映し出す装置としての鏡が、明らかにその役割を示した、という意味でも非常に重要です。 ミネリ:そう。彼女は鏡を見上げて、男たちや将校たちからダンスを申し込まれている自分自身を見いだす。それは彼女が夢だとわかっている夢だ。私は全編にわたって鏡を使った。彼女がルーアンで彼女が借りたひどい建物のひび割れた鏡。ラストシーンで彼女が着飾るために覗き見る鏡。修道院の中の鏡。あの作品でどれだけの鏡が使われたか、誰もわからないさ。ミネリの言葉通り、本作のあらゆる機会でエマが自分自身の欲望を映し出す鏡は、作品のなかで互いに乱反射をしているかのようで、「芸術的な『深い構成』」を持つはずの物語は混乱します。 ヒロインを超越した視点を持たず、つねに彼女の主観と密着した「語り」は、しばしば彼女のヒステリックなわがままに振りまわされるものの、全体をフローベールの語りのなかに封じた枠物語の形式が、かろうじて本作を分裂から救うことになります。 エマの悲劇的な末路を暗示するのは原作の構成力ではなく、ルーアンの安ホテルにかけられた割れた鏡のなかに映る、彼女自身のひび割れた姿なのです。 タイトルロールを演じるジェニファー・ジョーンズは、圧倒的な美貌やグラマラスな肢体をアピールするのではなく、ごく普通の女性からにじみ出す、人をハッとさせるような美しさを表現できる女優だと思います (といっても、その輝きを自在にコントロールして随所で見せつけるさまはさすがに大女優で、「ごく普通」とはまるでかけ離れたものなのですが)。 ストーリーの流れのなかで刻々と変化する彼女の表情は見るからにはかなげで、女性の可愛らしさと成熟、強さと弱さ、優しさと残酷さといった両極を絶えず往復しているかのようです。その急激な変化からは、ときおり神経症的でグロテスクな印象さえ受けてしまうほどです。エマの夢想に焦点を当てたミネリの構想に彼女はまさに適役で、ハリウッド映画において「エマ・ボヴァリーは私だ」という言葉は、この女優のためにあるのではないか、と思ってしまいます
。 原作ものの映画としては、多くの欠点が挙げられるのだろうこの映画は、しかしミネリ流のメロドラマとファンタスティックな要素がみごとに融合した傑作として、個人的にミネリの最高傑作の一つに数えたい作品です。 (17 August, 2006 ©taraga)
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