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ヴィンセント・ミネリ>各作品の感想>炎の人ゴッホ

炎の人ゴッホ
Lust for Life

監督: ヴィンセント・ミネリ Vincente Minnelli

1956年

製作: John Houseman
原作: Irving Stone
脚本: Norman Corwin
撮影: Frederick A. Young, Russell Harlan
音楽: Miklos Rozsa
出演: Kirk Douglas, James Donald, Anthony Quinn, Pamela Brown, Jill Bennett, Everett Sloane, Niall MacGinnis, Noel Purcell, Henry Daniell


★★★★ミネリ作品の教科書

細部の変更はあるものの、邦題どおり、よく知られたヴィンセント・ヴァン・ゴッホの生涯をストレートに描いた作品なので、シノプシスは省略します。
こういう「偉人」の伝記映画で、しかも56年という、クラシック期とニューシネマ期の狭間にある中途半端な時代に作られたメジャー大作というと、なんとなく鈍重にちがいないという先入観があるし、ヴィンセント・ミネリに夢中にならなければ、ぼくも見向きもしなかったでしょう。

で、実際に観てみると、これが一筋縄ではいかない映画なんですね。
若い頃は画家を志望し、自分(の改名した名前=父親の名前)と同じ名を持つこの画家の生き方に共鳴したミネリが、最も映画化を渇望して、最も撮りたいように撮ったのが、この作品です。
スターを使った商業映画であるにもかかわらず、ロマンスも笑いもアクションも歌も踊りも一切抜き。
狂気に取り憑かれた画家の半生を真っ正面から描き、炭鉱労働者の悲惨な状況や娼婦の生活など、社会のダークサイドにも踏み込んだ、この "アンチMGM" 的な大作が成立した陰には、意欲的なプロデューサー、ジョン・ハウスマンや、製作部長ドア・シャリーの肩入れがあったようです (彼らの助力によって、ミネリには原作者との契約期間を超過した製作さえも許されました。MGMのトレードマークのライオンを縁取った、"Ars Gratia Artis" [芸術のための芸術] というラテン語は、伊達ではなかったわけです)。
完成後はMGMの通例を無視して、メトロポリタン美術館でプレミア上映が行われ、アート系シアターやミニシアターに配給されたのだという本作は、批評家には絶賛されたものの、それほどヒットせず、期待されたヨーロッパでの興行収入もいまひとつでした (例外的にパリでは好評だった模様)。

……と、こういう細かい事情を訳知り顔に書けるのは、国内盤DVDにミネリとヒッチコックの研究家、ドリュー・キャスパー教授の音声解説が字幕付きで収録されているからで、これを聞くためだけでも、本作のDVDは手に入れるべきです。
このサイトでは、これまで映画の個人的な感想を綴ってきたんですが、本作に関してだけはキャスパー教授の解説内容を節操なく援用しながら、ミネリ作品全般の特徴を考えてみたいと思います。

キャスパー教授によると、戦後アメリカでは、本作の原作でもあるアービン・ストーンの歴史小説 "Lust for Life" (生の渇望)がベストセラーになり、ヴァン・ゴッホは反体制的な革命児のシンボルとして一般の注目を集めたのだそうで、現在からはちょっと想像もつかない話です。
なによりも同一性と服従が求められ、男性的な価値観が極端に抑圧されたのだという冷戦時代のアメリカの危機感は、想像以上に深刻なものだったことが、キャスパー教授の解説から理解できます。

アンチヒーローの活躍や歴史の読み替えが、普通に作品化されてしまう現在から見ると、ごく当たり前の主題を選んだ映画のように見えてしまうんですが、本作はアンチヒーローを本格的に描いた映画の嚆矢であり、古典的な伝記映画の壁を破った画期的な作品だったわけです。
現実的・社会的な抑圧を受けた主人公が、それまでとは異なった自己表現手段を見いだすことで、新しい自己を獲得する物語を、デビュー作から一貫して描き続けたミネリは、本作の監督としてうってつけの人材だったのでしょう。
逆に言えば、ミネリという監督は、ニューシネマが勃興するずっと以前から、自分なりの方法で同じような個の解放に関わる問題を扱い続けていたのだ、という気がします。

まあ、そういったテーマ分析的な見方を保留しても、本作はじゅうぶんにすばらしい。
ヴァン・ゴッホに外見も性格もそっくりだと自認するカーク・ダグラスの名演と、その親友であるポール・ゴーギャン役アンソニー・クインの特異な存在感は、誰もを納得させる圧倒的な魅力を放っています。
さらに本作を一見して驚かされるのは、偏執的なほどに手の込んだ映像と、その完成度です。
ミネリはゴッホを取り巻く「現実」と、その現実が画家の目を通して芸術作品に昇華していく過程の再現に徹底的にこだわり抜き、膨大な数のゴッホの作品(その多くが本物 *1)とロケ/セット撮影が間断なく連続する、精密で複雑、かつ芸術的に彫琢された映像を作り上げているのです。
それも、たとえば黒澤明の『夢』で見られる、名画の世界に紛れ込んだ主人公みたいな、CG時代の今では普通に感じられる映像ではなく、現地でのロケや現物そっくりに作ったセットで、実際にゴッホが見たはずの風景を、正確に再現しているんですね *2

さらにキャスパー教授が強調しているのは、本作で用いられた、異例に複雑な語りのシステムです。
まず本作は、伝記とはいっても編年体をとらず、ゴッホの後半生から五つの重要な時期を切り取ることで構成されています。しかも一元的な主人公の主観で語るのではなく、弟のテオに宛てられたゴッホの手紙の朗読や、周囲の人々の会話や反応から浮き彫りにされるゴッホ像、あるいは絵画芸術に関する説明や討論など、それを叙述する方法が多岐に及ぶのです (キャスパー教授は、戦後に流行したドキュメンタリーの手法の影響を指摘しています)。
こういった複雑な語りを持つ大作として、ぼくはマーティン・スコセッシの『カジノ』を思い出してしまうのですが、その饒舌ぶりがかなり小うるさく感じられた『カジノ』とは対照的に、この映画の「説明」は、「説明」そのものであるにもかかわらず、「説明」臭さを感じさせません。

また本作は、ミネリがこれまで追求してきた彼独自の方法の集大成でもあります。
ミネリの映画を観てまず感じられるのは、場面や状況の飛躍を飛躍と感じさせない流麗な語り口ですが、本作でも物語は場所や時代を頻繁に飛躍させるにもかかわらず、なめらかな映像の語りによって、観る者にそれが一連の出来事であるかのような印象を与えます。
たとえばラスト近く、地元の祭りの喧噪のなかでゴッホが錯乱する場面と、彼が麦畑で自殺に至る場面は、注意深く見れば別の日の出来事であるにも関わらず、まるで連続して起こったかようなカッティングでつながっているのです。
あるいはゴッホが自分の耳を自傷するシーンは、ミネリが彼のほとんどの作品で象徴的に用いた鏡を使って、間接的に描かれています。作品全体のトーンを崩しかねないこの激しい場面も、彼の頬を染める血の「赤」をちらりと見せることで、作品を通底する色彩のテーマの一要素として自然な流れを作ります。

ミネリ作品の顕著な特徴である色彩については、本作では各エピソードごとに基調となる色調を統一して主人公が置かれた状況と同調させるとともに、赤(激情、情欲、興奮)、緑(狂気、不安)など、部分においても象徴的にそれらを用いています。
さらにクロースアップはめったに用いられず、人物の配置や構図によってそれぞれの精神状態を暗示すると同時に、主人公を取り巻く周囲の状況を、1フレームのなかで複層的に提示しています。
その結果、各テイクは長くなり、主役級の役者の演技の連続性を重視するとともに、画面に配されたすべての人物や舞台装置にも同様に神経を行き届かせています。
ミネリにとっては、登場人物やその衣装だけではなく、舞台装置や小道具を含むスクリーンに現れるすべての事物が作品の精神そのものであり、それらは史実を忠実に再現すると同時に、きわめて人工的に、それぞれが物語の語り手として、巧妙に画面に配置されるのです。

現代の目から見れば、スタジオシステムがフル稼働していた時代のA級映画のみに許された贅沢だと思えるかもしれませんが、前作『キスメット』と次回作『お茶と同情』の製作期間に重なるタイトなスケジュールのなかで *3、これほどの手をかけた大作がロケ撮影2ヶ月、スタジオ撮影2ヶ月(通常のMGM作品の倍の期間)で撮られたのだと聞くと、逆にその効率のよさに驚かざるを得ません。
これらすべての映画を構成する複雑な要素がみごとに溶けあいながら、なめらかに連続する映画を観ていると、普通ならばマイナスの要素である「説明」的な語りも、全体のなかに埋没した慎ましさを感じさせます。

そもそも偏執的なまでに細部にこだわって作り込まれたこの映画には、作り込みが過剰な映画特有の閉塞感が、どこにも見あたりません。どこまでも流麗、簡潔で、ひたすら美しいのです。
けっして人目を引く派手な要素を含んでいるわけではありませんが、「ミュージカルの巨匠」という窮屈な評価を離れたミネリがどんな映画監督だったのかを教科書的に示してくれる、噛めば噛むほどその独自性があきらかになるであろう、硬派な見応えのある作品です。


*1 本作公開当時の「キネマ旬報」誌の切り抜き(月号不明)によると、本作に登場する画商タンギーを描いた絵は、エドワード・G・ロビンソンの所有物だったらしい。

*2 上掲誌に掲載された、伊原宇三郎(美術家)、大久保泰(美術家)、岡俊雄、赤尾周一各氏の座談会によると、ゴッホの作品に描かれた風景だけが再現されているだけではなく、いくつかの事件が起こる場所や時間の微妙な変更が加えられているものの、アルルの町民が集まってゴッホを非難する場面の建物や、サン・レミイの精神病院、プロヴァンスに吹くミストラル(季節風)の様子、あるいはゴッホの絵の描き方(たとえば帽子に蝋燭を立てて夜景を描く場面)なども、当時の場所や状況が正確に再現されているのだそうです。

*3 試写会の結果、テオが画廊のオーナーに対して兄の絵を弁護するシーンに撮り直しが求められたものの、ミネリはすでに『お茶と同情』の撮影中であったため、ジョージ・キューカーがリテイクを引き受けたとのこと。

(05 September, 2006 ©taraga)


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